2章2節

 実のところ、父の研究が本当は極めて危険なものであることを、カイルワーン自身も察していた。

 それは、魔女に対する恐怖や偏見が世に深く根付いているからだけではなく、父が追い求めているものが、国家の行った秘匿であるかもしれなかったからだ。

 だが、ともカイルワーンは思う。二百年、この謎を追いかけた歴史家は父だけではない。多くの史家が考察し、史料を探索し、そして何一つ明らかにならなかった謎の数々は、いかに天才の呼び声高い父であろうとも解けることはないだろう、と。

 だからこそ父は、この道を選んだのだろうと。

 図書館を出たカイルワーンの歩みが、ふと止まった。燦々と差し込む光の中、壁面に飾られたものは、そんな彼の心を見透かすように居並んでいる。

 アルバ王国の光と闇。

 王立学院と、王宮を結ぶ渡り廊下は『列王の回廊』と呼ばれている。十二代続く、アルバ王国の歴代王と、その王妃の肖像が飾られた場所だ。

 人影のない回廊を、足音を潜めてカイルワーンは進む。歩みは時を遡り、辿りついたのは最端。

 初代王カティスと、彼の息子である二代王ステフィとの間には、不自然な空間がある。肖像が一枚あってしかるべきの、ぽっかりと空いた隙間。

 消えた肖像に描かれた女性のことを、カイルワーンは考える。

 初代王妃マリーシア。英雄王の、ただ一人の女性だ。

 聡明な女性で、カティスの治世を長らく補佐したと伝えられている。また歌舞音曲に優れ、多くの楽曲や詩作を残している。

 だが、彼女もまたその出自が明らかでない──魔女や、賢者と同じく。

 カティスと同じ平民出身で、彼によって見いだされて側近くに仕え、ついには王妃にまで登り詰めたのだと史書には記されている。しかし、城に登るまでの前半生は、いかなる記録も残されていない。

「カイルワーン、こんなところで会うなんて、珍しいわね」

 突然声をかけられ振り返ると、そこには、オフェリアが立っていた。

 手には図書館のものと思われる本。オフェリアはアイラシェールや彼ほどではないものの、大変な勉強家だ。

 人目がないので、カイルワーンは敢えて跪礼はしない。オフェリアがなぜか、カイルワーンが型通りの礼を取ることを嫌うからだ。

「浮かない顔ね」

「少し、考え事をしていました」

 応えて、少しだけ迷った。国家の秘匿──その言葉が脳裏をよぎったからだ。

 だが、カイルワーンは思い切ってオフェリアに問いかける。

「マリーシア王妃の肖像が、ここだけではなく王宮にも一枚もない、というのは本当ですか?」

「先祖のことながら、恥ずかしい話だけど」

 苦笑して、オフェリアはカイルワーンの問いを肯定した。

 マリーシアの肖像は作られなかったのではない。後に全て消失したのだという。

「……やはり、ニコル王妃が焼いたんですか」

 マリーシアと二代王の王妃・ニコルとの仲は相当に険悪であったらしい。嫁と姑の関係が難しいのはいつの世のどの家庭でも同じことであるが、この二人の戦いは相当に苛烈なものであったという。

 しかも二人が間にはさむことになる息子であり夫が、一国の王であることが事態をより深刻にした。二人は国政に関わることで対立することも多く、そうなった時ステフィ王は妻よりも母の側に立たざるを得なかったからだ。

 マリーシアは、後の歴史家に『カティスの共同統治者』と呼ばれるほど国政を熟知・掌握していた。そんな彼女を、王位を継いだからといって、経験浅いステフィ王がないがしろにすることはできなかったのだ。

 その状態はマリーシアの死去まで続き、結果ニコルはその後暴走することになった。

 ニコルは宮廷からマリーシアの影を払拭しようと躍起になった。そしてそれは度を越し、彼女は宮廷内に残るマリーシアの肖像を全て焼かせた。その暴挙を夫である王ですら制止することはできず、また彼女が存命中にはマリーシアの肖像を描くことは許されなかった。

 そして長命であったニコルが死んだ頃には、もはやマリーシアの顔を覚えている者は誰もいなくなっていたのだという。

 目の前に空いた隙間の理由は、公にはされていないが、そう伝えられている。だが、マリーシアの謎はそのことだけでは説明がつかない。

「マリーシア王妃は」

 オフェリアに問うというより、独り言のようにカイルワーンは呟いた。

「あの哀歌で、何を伝えたかったんだろう」

 魔女を恐れるのでもなく、罵るのでもないあの歌で。

 夫である王を讃えるのでもなく、寿ぐのでもないあの歌で。

「何を遺したかったんだろう……」

 だから、カイルワーンにとってマリーシアは謎だ。

 魔女や賢者と同じ謎を、彼女ははらんでいる。

「カイルワーンは、魔女忌の存在を不思議に思ったことはありませんか?」

 呟きに応えるように、オフェリアは問いかけた。

「『六月の革命』に関わる謎は、誰に指摘されるまでもなく不自然です。国家規模の捏造、隠蔽があったのだと言われても仕方ないほど。その結果、魔女の呪いそのものが国家が作り上げたものだと思われても、仕方ないほど」

「オフェリア様……」

 内心を読まれたようなオフェリアの言葉に、カイルワーンは驚く。そんな彼に、オフェリアは続けた。

「けれども、一つだけ確かなことがあります。カティス王とマリーシア王妃は、魔女を悼んでいた」

 慰霊碑に手向けられる赤い薔薇。

 魔女を、自分たちや賢者と同格に並べて、共に哀れんだあの歌。

 消された真実を知っているであろう人物は、決して魔女を恐れても、忌んでもいない。

「私は、ありもしなかった呪いが捏造されたのではなく、国家が呪いを消しきれなかったのではないかと思っています。風評として流された益体もない噂が、人の口を経ていくうちに誇張され、呪いとして広く伝わり定着していったのだと」

 オフェリアの意見に、カイルワーンは小さく頷いた。

 それもまた一つの推測。一つの可能性。

「二百年の間に固まった迷信と、恐怖を取り除くことは並大抵のことではありません。けれども、カイル」

「はい」

「私は諦めません。父のように、諦めて、見ないふりをすることはしません。だから」

 慈愛と決意をない交ぜに、オフェリアは笑う。

「だからカイル、待っていなさいね」

 王宮に続く扉の向こうに消えたオフェリアを見送り、頭を上げたカイルワーンは小さな吐息をこぼした。

 最後のオフェリアの言葉の真意は、自分には判らなかった。

 決して、判らなかった。



 馬鹿馬鹿しい。そうグラウスに突きつけた自分の言葉が、カイルワーンの耳の奥で巻き戻されては、繰り返されていた。

 自分の分と、アイラシェールの分。目当ての本は借りられた。あとは戻るだけなのに、どうしてもその気になれず、薔薇園の奥で足を止める。

 目の前には、人々に恐れられ、誰にも省みられることのない赤い薔薇が咲き誇っていた。

 魔女の呪いなど、馬鹿馬鹿しい。迷信だ。そう思う気持ちは、間違いではない。

 だが同時に、思いもする。

 別の意味で、確かに魔女の呪いは存在するのだ。

 魔女はその預言によって、この国に生まれてくる全ての白子の女性に呪いをかけた。

 この国では白子の女性は生きていけない。存在してはならない。生まれてくることすら、あってはならないのだ。

 だからこそシェリー・アン王妃は心を閉ざしてしまったのだし、クレメンタイン王はアイラシェールをここに幽閉せざるを得なかった。死んだことにしなければならなかった。

 そうしなければ、恐れに駆られた人々から、彼女を守ることはできなかった。

 それでもまだ彼女は、幸運な方だったのかもしれない。こうして父王に守られ、幽閉の境遇であっても生き延びることができたのだから。

 この二百年の間に『甦った魔女』とされ、処刑された女性の数は公にはされていない。だが国家が行った『魔女裁判』と、『魔女狩り』の名の下行われた私刑が、おびただしい数に上ることは、もはや疑いようもない。不幸にも白子に生まれついてしまったために、そして『魔女の生まれ変わり』という濡れ衣を着せられたために殺された人は、一体どれくらいいたのだろうか。

 それが決して掘り返されることのない、ロクサーヌ朝の闇。

 むしろ、それこそが『魔女の呪い』だろうと、カイルワーンは思う。預言の成就を恐れるあまりに繰り返される蛮行と、やまぬ偏見。その犠牲になる罪のない人々。

 その筆頭として存在する、アイラシェール。

 きり、と唇をかみしめて、カイルワーンは内心で毒づいた。

 呪いなどあり得ない。死人が甦る理もあり得ないし、それで国が滅ぶなどあり得ない。

 だが、そう叫んでも、人はそれを信じない。恐れを手放そうとしない。

 そんな現状を、オフェリアは変えてみせると言った。このままにしておかないと。それは彼女が常に言い続けてきた言葉だ。

 だが、僕は――そう考えたところで、突然声をかけられた。

「カイルワーン」

「親父」

 振り返ると、そこには父親であるリメンブランス博士が立っていた。

「……なんでこんなところに」

 訝しげに問いかけた息子に、博士は重苦しい表情を向けた。

「今日の私は、お前宛の使者だ」

「……え?」

 突然の言葉に、カイルワーンは聞き返す。意味がまったく呑み込めない息子に、父は表情と同じ重苦しい声音で、こう告げた。

「明日、登城せよとの命だ。王がお前に謁見を賜られた」

「明日」

 カイルワーンが驚いて呟く言葉に、父は頷く。

「そうだ、明日だ」

 明日がどんな意味を持つか、カイルワーンには痛いほど判っている。だからこその謁見だということも。

 とうとうこの日がきた。カイルワーンはぎっと拳を握りしめ、必死に早鳴る鼓動を抑えようとした。

 明日が来なければいい。真剣に、そう思った。

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