1章2節

 大陸最北端の国・ガルテンツァウバーから大陸中央部の国・アルバへ大使交代のための旅団が出立したのは、大陸統一暦1215年三月始めのことだった。

 一行は海路ではなく、大陸を南北に貫く中央陸路による陸路を選択した。いまだ冬と呼んでいい気候のガルテンツァウバーから、二ヶ月もの時間をかけて南下するその旅は、まさに季節を早まわししたようであった。

 風が温み、地面を一面に埋めていた雪が消え、黒かった地面に草の芽が顔をのぞかせ、木々はその枝いっぱいに花を咲かせる。そして最終目的地であるアルバの首都・アルベルティーヌはすでに、初夏の佇まいを見せていた。

 若葉を過ぎ、深緑の葉を広げた木々。町の中いっぱいに出回るサクランボや早生葡萄などの夏の果物。行き交う人々の衣装もすでに多くが半袖で、それさえも人によってはたくし上げている。そして何より目を引くのは――。

 それはアルベルティーヌの町の隅々まであふれ、王城において粋を極めた。

 一重、八重。数えきれぬほどの重なりが渦を巻く。繊細な、時には大胆な色は目を驚かせ、芳しい香りは鼻を驚かせる。

 今年十七。南方の大使を任された父に同行し、初めてガルテンツァウバー周辺を出たグラウスにとって、それはいくら見ても見飽きることはなかった。

「不思議な方ね。何を一心にご覧になっておられるの」

 突然かけられた声に、グラウスは顔を上げた。自分の心が夜会を離れ、ぼうっとホールを漂っていたことに、彼はようやく気づいたのである。

 音楽はいつしか円舞曲。人々はそれぞれの相手を得てホールの中央に繰り出し、グラウスがいる壁際のテーブル周辺は、人影ももはやまばらだ。

 目の前には、見事な翡翠色のドレスをまとった、小柄な女性が立っていた。

 金髪に、ドレスと同じ翡翠色の瞳。その姿は、夜会に先立つ式典において、遥か高き壇上で見かけられたものではないか。自分と同じ高さなどあり得るはずもない存在に、グラウスは驚く。

「オフェリア王女殿下……」

 慌てて跪礼をしようとするグラウスを、アルバ王国第一王女・オフェリアは艶やかに笑って制止する。

「どうぞ楽にして。お国ではどうなのかは存じ上げませんが、アルバにおいてはこれが流儀なのです。夜会の間中壇上の飾りでは、暇を持て余してしまうというものでしょう。違って?」

「それではお言葉に甘えまして」

「新大使でいらっしゃるブレンハイム卿のご子息ですね。新任式の時におみかけしました」

「グラウス・ブレンハイムと申します。王女殿下のお見知り置き、誠に光栄に存じます。父と共に、昨日アルベルティーヌに到着いたしました」

「どうです? アルバは。ガルテンツァウバーとはずいぶん違うでしょう」

「話には聞いておりましたが、本当に暖かく穏やかで、美しい国です」

 北の外れ、ガルテンツァウバーは厳しい気候の国だ。年の半年は雪と氷に閉ざされる。そんな土地に暮らす人々の生活は、質実剛健。およそ無駄というものが存在しない。

 そのような国民性を反映し、町並みも王城も整然として荘厳、重厚。それはそれで美と呼べるものではあるが、華麗さ・優雅さにははなはだ欠ける。

 一方、温暖にして肥沃。気候条件に恵まれた大陸中央部に位置するアルバは、『南方の華』と称えられている。その名にふさわしく、町並みも、王城も、その内装も、すべてが贅を尽くしており、優美で華麗だ。

 こうして目の前を行き交っていく王侯貴族たちの装いの、そのきらびやかなこと。今着ている自分の夜会衣装が、地味で質素なくらいだ。国で仕立てた時は、あんなに派手で贅沢で恥ずかしいと思ったのに。

 何もかもが、自分の生まれ育った国とは違う。

「そして、あれこそが、『南方の華』と称えられるアルバの神髄なのですね」

 グラウスの視線の向かうところ。自分に声をかけられるまで、彼が一心に視線を注いでいたものの正体に気づき、オフェリアはああ、と破顔した。

「薔薇ですのね。先ほどから熱心に眺めていらしたのは」

「はい」

 ホールの到るところに、惜しげもなく飾られているその花。その形、その色合い、その香り。何もかもがグラウスを驚かせ、引きつけてやまない。

「ガルテンツァウバーでは、薔薇は咲かないのでしたね。どうです? 初めてご覧になった感想は」

「話には聞いておりましたし、本の挿絵などで見たつもりでおりましたが……実物が、こんなに美しく芳しいものだとは思ってもみませんでした。たかが花、と思ってきた自分の不明を恥じる思いがいたします。ですが――」

 知らず言葉尻を濁したグラウスに、オフェリアは問いかける。

「何でしょう?」

「ご無礼を承知の上で、お聞きしてよろしいでしょうか? アルバではありとあらゆる種の薔薇が栽培されていると聞いておりますし、この王宮で多彩な種を目にすることができました。ですが……その中に、赤い薔薇は、なかったように思われるのですが……」

 白、黄色、橙色、紫色。薄紅色ならあるし、白に赤い縁取りなんて色彩のものまである。それなのに物語に一番よく出てくるような、赤――真紅の薔薇が、王宮のどこにも飾られていないのだ。

 その不自然さは、考えられる限りの色の薔薇が飾られているだけに、余計に気になった。先ほどまでグラウスが考え込んでいたのは、まさにそのこと。

 そんなグラウスの問いにオフェリアは少し考え込むような仕種を見せると、逆に問い返す。

「グラウス殿は『マリーシアの哀歌』という歌をご存知かしら?」

 突然の問いに、グラウスは面食らった。小さな声で否定すると、オフェリアは笑みを浮かべて、彼を促す。

「こちらにいらして」

 鮮やかな身のこなしでドレスの裾を捌き、オフェリアは広間を奥へ奥へと進む。ようよう立ち止まったのは、広間の最奥。一際高いところに掲げられているのは、巨大な肖像画。

 描かれているのはオフェリアと同じ金髪緑眼の青年。頭上に戴いている豪奢な宝冠と、手にした宝剣が、この青年の身分を表している。

「カティス・ロクサーヌ初代王の肖像です。大陸中央三国を平定した建国王。ご存知でしょう? マリーシアは、彼の王妃でした。歌舞音曲に優れ、様々な歌や楽曲を後世に残しています。『マリーシアの哀歌』と呼ばれるその歌は、彼女が残した歌の中で、最も有名なものです」

「それが、赤い薔薇とどんな関わりが」

「その歌の一節にあるのです。『赤い薔薇は魔女の取り分』と」

 オフェリアの言葉に、グラウスは微かに表情を曇らせた。

「アルバの赤い魔女、ですか……?」

 それは現在の王家・ロクサーヌ朝成立に深く関わっているとされる謎の人物。

 グラウスは今回父に同行するにあたって、アルバの歴史や地理について学んできている。

 アルバにおいて『魔女』といったら、彼女以外にはあり得ないはずだ。

 そんな彼の問いかけに頷くと、王女は少しだけ節をつけて、歌詞を呟く。

「白い薔薇は王の取り分。赤い薔薇は魔女の取り分。黒い薔薇は賢者の取り分。黄色い薔薇は王妃の取り分。それぞれの終わりのなき哀しみに、それぞれの薔薇を手向けよ――そう歌われています。今ではその歌詞の正しい意味も、マリーシア王妃の真意も伝わってはいません。ですがその歌が元で、赤い薔薇はアルバで忌避されるものになりました」

 ふう、と小さくオフェリアはため息をついた。そのため息の中に愁いが見えることを、グラウスは不思議に思う。

「赤い薔薇は魔女のもの。赤い薔薇は魔女を呼ぶ。そう民の間では根強く信じられているのですわ。そんなことを誰も言ってはいないのに――マリーシア王妃だって、そんなことを言いたくて歌を残したのではないでしょうに」

「それは……迷信でしょう?」

「そうです。それでもこの国は、国花として到るところに薔薇の木が植えられるというのに、ロクサーヌ朝建国以来、赤い薔薇だけは栽培されなくなりました。好んで魔女の薔薇を家に植える者はなく、切り花にしても買い求める者もいないのですから。おかげで魔女忌の手向けに使う赤い薔薇の栽培を、国務として王宮が行わなければならない始末ですわ」

 皮肉でしょう。オフェリアはいささか自嘲を込めて、くすくすと笑った。

 確かにそれは、大層な皮肉だ。民間でさえ忌んで、栽培されなくなった『魔女の薔薇』を、かつて魔女に乗っ取られたこの王宮の中で栽培しなくてはならなくなったとは。

「それではもう赤い薔薇は、王宮の中でしか栽培されていないのですね」

「王宮薔薇園の一番奥にある『赤の区域』で育てられ、魔女忌の時だけ切り花が外に出されます。……そういう決まりがあるわけではないのだけれども、魔女忌の時以外、赤い薔薇を目にしたいと思う者はアルバにはいないのですわ。ですから必然的に、そうなってしまうのです」

 それにしても、とグラウスは思う。当然のごとく湧き上がってくる疑問を、率直に王女にぶつけてみる。

「ですが、どうしてそこまでして、魔女の忌日を執り行い続けるのです? 魔女の忌日は、初代王が魔女を倒して、彼女の支配から国を解き放った『解放記念日』でありますのに。そこまでして魔女の霊を慰めるよりも、英雄王の業績を讃える行事に切り換えていく方が自然なのではないのですか?」

「それが伝統と呼ばれるものでしょうね。初代王が自らの功績を讃えることよりも、魔女の霊を弔うことを選ばれたのですから。『マリーシアの哀歌』のように、赤い薔薇を自ら王宮内に立てられた碑に手向け、存命の間決して欠かされたことはなかったとか」

 自らの遥か先祖の肖像を見上げ、オフェリアは目を細める。

「綿々と続いてきたことを変えることは、それが些細なことであったとしても、途方もない力がいるのです。それがどれほど時代に、理に合わないと、誰もが感じていたとしても」

 その言葉を紡ぐのに、オフェリアが表情を曇らせたのをグラウスは見逃さない。オフェリアが何に危惧を抱いているのか――それはいずれは父の後を継ぎ、政治に携わろうとする彼には容易に読み取ることができた。

 目の前で繰り広げられる華やかな夜会。美しく着飾り躍る人の群れ。だがそれがこの国の全てではないことを、グラウスは知っているのだから。

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