第30話 雅美、蓼科へ-1

 父を探すこの一連の行動が、よもや私を蓼科へ連れて行くことになろうとは全く想像していませんでした。落とし前をつけると言ってどこかへ行った父。父には常に朝日奈家と朝日奈ホールディングスを守る使命が課されていました。その重さはまだ私には窺い知れぬものがあるのでしょう。思えば、親と子の間には、常に、子が親を追う意識が介在しているのかもしれません。今、私は、父の背中を追って、紀子という、お爺ちゃんの愛人だった人の親戚を訪ねようとしています。思ったよりも早く寺岡さんは、二十六年前、お爺ちゃんが亡くなり紀子さんが自殺したことで一人取り残されてしまった「こうた」という息子を引き取りにやって来た、叔父にあたる方の名刺をスキャンして送ってくれました。多分、ご自身が言っていたように支店の若い従業員さんにやってもらったんだろうな。スマートフォンの画面には「そば善 店主 磯部清」と印刷された名刺が映っていました。この方が紀子さんのご実家の方ということか。逗子ではスーパーの柿枝さんは紀子さんを「それ、山嵜さんじゃない?」と言っていました。磯部姓と山嵜姓。他人ではないかと頭をかすめましたが、姓の違いは、叔父と姪の関係ではよくあることです。紀子さんの母方の親戚筋かもしれません。名刺には住所も電話番号も書かれていました。まずは電話が良いだろうと思いましたが、それだと一方的に切られてしまって二の手を踏めなくなってしまう危険があります。ここは直に行ってみて話を聞いてみよう。ただ今回は自分一人で行かないといけない。これは、これだけは自分で。蓼科へ行っても何もわからないかもしれないけど、父が行っているかもしれないし。私は父の後を追いかける旅に出ているんだ。父はどこで何をしているのだろう。私だってもう大人なんだから「お前は細かいことは知らなくていい」などと言ってほしくなんかなかった。あの怪しい手紙が自宅に届けられたタイミングで父が落とし前をつけると言ってどこかへ行った。これは偶然なんかじゃない。


 新宿に出てそこから特急スーパーあずさで茅野へ。飛び込んでくる景色が高層ビル群から雑居ビル群へ、やがて住宅街、そして程なく草木山林の萌える田園風景へとみるみる変わって行きました。夕陽も一分ごとにオレンジ色が濃くなって、紅になり紫になり、やがて夜を告げる青紫へ変わっていきました。とっぷり夜が更けました。そんな景色をボーッと眺めながら、“脳には思ったことを現実にする力がある”とよく言われることを思い出しました。つくづくそうだなと思いました。この数日で色んなことが起き過ぎましたが、その時々、行く先々で、私が思う、あるいは感じることは、この一連の行動が実のところ父を探す最短経路のように思えてなりませんでした。何故だろう、とても不思議な気分。そうか、私には常に相談に乗ってくれる人が傍らにいてくれて、一緒に考えてくれて、正しい方向を常に示唆してくれる人がいるからなんだろうな。でも今度ばかりは自分で。。。


 茅野に着いたのは午後九時過ぎでした。駅を出るともう真っ暗でしたが、思わず見上げた空には満点の星がキラキラこぼれるように輝き、今にも降ってきそうなくらい。こんなにたくさんの星が空にあったなんて。素人の私にも夏の大三角がわかりました。こと座のベガ、織姫星だっけ。わし座のアルタイル、これは彦星。それからあれがはくちょう座のデネブ。昔ギリシャの羊飼いが夜空を見上げて星と星を線で繋げて動物や神様の絵を型取ったのが星座の始まりだったっけ。


 磯部さんの家までは地図アプリでは約十キロ。もうバスは終わっているのでタクシーですが、ロータリーには一台も客待ちの車はありませんでした。タクシー乗り場の看板を見ると呼び出すための電話番号が書かれていました。しかし市内局番からしか載っていなかったため、携帯から電話するには市外局番を知らないと発信できません。どうしよう。誰も歩いていないし、心細いし。泣きたくなってきました。と、駅舎を見ると一枚だけポスターが。ありました。ポスターの横に掲出案内が。「ポスターを掲出してみませんか?」の下に電話番号が。しっかり市外局番から載っていました。早速タクシーを呼びました。十分ほどで来てくれるというのでそばにあった自販機でミネラルウォーターを買ってみました。煌々と明かりがついて色んな虫が自販機にへばりついていました。私の気配に気づいて一斉に虫たちが飛びちがいました。苦手なんだよな、こういうの。なんかすごいブンブンいってるし。コインを入れて出てきたペットボトルを取り出すとき、かがんだ拍子に一匹の甲虫が顔に当たりました。ひええ~。父はここで何か買ったかな。買わないな。こんなに虫が寄り付いていては寄り付かないのが父だし、そういう所を見たことないし。そそくさと退散してタクシー乗り場へ戻り一口飲んでいると、向こうの方から一台タクシーが来ました。駅のロータリーに進入すると慌てて帽子を被って、その拍子に眼鏡がずれてしまって、また慌ててかけ直して。忙しそうです。

「電話くれた朝日奈さん?」

「はあ、そうです」

「はいじゃあどうぞ」

「はあ、失礼します。あの、すみません、◯◯町のそば善さんなんですけど」

 運転手はとても小柄な人の良さそうなおじさんでした。

「ええと、◯◯町ね、それはわかりますけど、そば善さん? ちょっとわからないけど、あそこかなあ。 地図出しますね。 ええと、ちょっと待ってください。 住所わかります?」

 そう言って、運転手さんは助手席に置いてあった地図を取り出し、眼鏡を額にズリ上げて◯◯町を探し始めました。

「はい、これです」といって、スキャンした名刺を映したスマートフォンの画面を見せました。運転手さんは、

「ん? スイマセン、老眼なもんでよく見えんですよ。 お客さん、悪いけど代わりに読んでくれる? 悪いねえ」

 私が名刺の住所を告げると、

「はあ、ここかなあ。 うん、わかりました。 でもお客さん、この時間じゃ、もうやってないですよ? 東京と違うから。 ええ? いいの? どっこもね、一日分の蕎麦が出たらそれで終いだからね」

「あ、いいんです、いいんです」

「あ、そう」運転手さんは、じゃあ何しに行くの?という顔つきをしましたが、人を乗せて運ぶのが仕事なんだからそれ以上の詮索はすまいと思ったのか、

「よし、じゃ、ドア閉めますよ、足入れた? 服はさまないように、気ぃ付けて」と、言って車の運転に集中してくれました。

 五分後。幹線道路を直進し、信号のない交差点を右に折れ百メートルほど進んだところで運転手さんが声をかけました。

「たぶんね、この少し先だと思いますよ」

「あ、じゃ、ここで結構です」

「前まで行かなくていいの?」

「はい、結構です」

「あ、そう。はい、じゃあ、メーター止めますね」

 タクシーが走り去るのを見届けて、運転手さんが指し示した建物の方向を見ました。

 腕時計を見ると時刻は午後九時半を少し回ったあたり。山の麓と思われ、この農道が一本通っているだけで周囲には住居がなく右も左も畑が見渡す限り広がっていました。夏空の下、やはり星が満天に輝き今にもこぼれ落ちて来そうでした。これからあの家へ行く。そして、そこで起こることや知ってしまうことは、何故だか、今後の自分に何かしら得体の知れない影響を与えるんだと、私は漠然としかし確信に近い感じを持ちました。

 運転手さんが指し示した建物の少し手前まで来ると、ありました、「そば善」の看板が。木造二階建て、お店と住居を兼ねていると思われ、軒先には「蕎麦おわりました、またどうぞ」と札が出ていて消灯していました。上の階には暖色の丸電球が一つ灯っていました。建物の妻側に回ってみると二階に続く階段が。その脇に錆びた赤い郵便箱があり、名入れする場所に「磯部清」と達筆な筆で書いてありました。ここで間違いなさそう。


「どなたかな?」

 不意に声をかけられ、うわっ!とびっくりして後ろを振り向くと、ランニングの肌着にズボン下のお爺さんが立っていました。

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