第17話 黒衣の老婆
「あんたは、あんたは、」と、背後からしゃがれた声を絞り出すように声が聞こえた。気になって振り向くと、暗がりで良く見えなかったが老婆が俺を見ていた。老婆はもっと近くで俺を見ようと近寄ってきた。そしてまた「あんたは、ああ」と言ってきた。このクソ暑いのに真っ黒の和服を着ていた。
「あの、すみませんが、どちら様でしょうか」
***
初台御殿を仮の住まいにし始めて三日目、事件から数えると四日目の夜、雅美さんが残業で帰りが遅れるというので、私が一人で雅美さんの離れの居間で読書をしていると、相変わらず猜疑の目を隠そうとしない郁さんが紅茶を持ってきてくれました。でも、この時は何かモジモジして、
「あら、置時計の位置がずれているわ。直さなくちゃ」
とか、
「部屋、寒くないですか、エアコンの温度を一度だけ上げましょうか」
とか、
「やだ、こんなところにキズができちゃって」
と、椅子の脚をナデナデしたりして、なかなか部屋を出て行こうとしません。私は自分が郁さんにとって招かれざる客だということはわかっているので、バツの悪い気持ちで、
「このアールグレイ、とてもおいしいですね」
と、見当違いのお世辞にしか聞こえないような台詞をつい言ってしまいました。すると、郁さんは、会話の糸口を見つけたと言わんばかりに、
「あら、気に入ってくれましたか」
と、急に明るい顔をし始めました。そして、
「あのお、少しよございますか」
と、聞いてきました。
キタアー(゚Д゚;)! きっと、私が雅美さんとどういう間柄で、どれだけ悪い友人なのか、根掘り葉掘り聞いて、金輪際関わらないでくれるなと言ってくるに違いないんだと、思わず身構えました。だから恐る恐る、
「はあ、なんでしょう」
と聞くと、郁さんは私と向かいのソファに腰を半分だけかけ、しきりに割烹着の裾を払っていました。言い出せない、何から話せばいいのかわからないといった表情でしたので、
「何かあったのですか」
と切り出してみました。しかし、郁さんから出てきた言葉は思いもよらないものでした。
「旦那様はどちらに行かれたんでしょうかねえ」
郁さんは代々木八幡の忌まわしい事件のことはニュースなどで知っていても、手紙のことも、私たちが第一発見者だったことも知らないはずです。私は戸惑いました。郁さんが朝日奈家の人間ではない私に社長のことを聞いてくるとは全く想定していなかったからです。とりあえず私は、当たり障りのない受け答えをしました。
「ああ、そうですね。出張なんですよね?私はただの事務職ですからそれ以上の詳しいことは・・・」
「あ、いやいや、そうでしょうねえ、そうでしょうねえ、それだから雅美さんもお客様をお招きになって寂しさを埋めようとしていらっしゃるんだと思います。はい。ねえ。ええ。ただ、私が言いたいのはそういうことではなくて・・・」
切れてしまうのではないかと思うほど強く郁さんは爪で割烹着をしごいていきました。
「というと?」
「はあ、ここ何日か変でしてえ、いえ、いえいえ、別に、お客様は雅美様のご友人ですから、そのことではないってことを申し上げたかったんです」
人は自分が相手にどう思われているか的確に察知できると言います。郁さんは、私が自分からよく思われていないと思っているんじゃないかと気を利かせてくれた。だから『そのことではない』と言ってくれた。じゃ、『ここ何日か変』というのは?
「ああ。ありがとうございます。しばらくご厄介になります。で、変と仰いますと?」
「はあ、あのお、私・・・」
今度はいきなり顔を上げ、分厚いメガネから出目金みたいな目がウロウロ泳ぐようになり、
「何か気持ち悪くて・・・」
「何か変で、何か気持ち悪い、ですか」
「はあ、誰かに見張られているような・・・」
「誰かに?」
「ええ。一昨日なんですけど、醤油が足りないので夜、スーパーへ行こうと思って勝手口から外に出たんです。左手に下り坂がありますでしょ?駅とは反対側の。あっちの方で誰かが喧嘩していたんです」
そう言って郁さんがつくづく私を見つめました。私は見つめられてつい目をそらしてしまい、
「そうなんですか、物騒ですね。酔っ払いが大声を出してただけじゃないんですか?」
郁さんは、自分をバカにしちゃ困るといった顔をして、
「いえいえ。その時は私も怖いし、早く買い物して早く帰って来ようと思っていたのであまりよく見ませんでしたけどね、喧嘩をしていたのはお婆さんと若い男の人だったんですよ」
郁さんはおかしいでしょ?と言いたげな眼で私を凝視しましたが、私はそんなことにいちいち不審がっていられないのではないかと思い、
「はあ。威勢の良いお婆さんですね」
と受け流しました。でも郁さんは、
「違うんです。威勢の良かったのは若い男の人のほうだったんです」
なんだ、じゃあ普通の酔っ払いか何かなんじゃないのかと思いましたが、あまりにも郁さんがギョロ目で見るので、
「何か不審なことでも?」と聞いてみました。すると、郁さんは、
「その若い方の男の人、泣いてるみたいで、何かを叫んでバーッと走っていっちゃったんです」
「泣いてたんですか?」
「そうなんです!何しろこの辺って夜は街灯も暗くてよく見えないでしょ?スーパーから戻って来た時に、もう一回、恐る恐るその坂の方を覗いてみたんですけど」
「覗いてみたら?」
「誰もいなくて・・・」
「・・・。じゃ、いいじゃないですか」
郁さんは私がそんな風に言うので何かもどかしいような悔しいような顔をして、
「それだけじゃないんです。そのお婆さんなんですけどね、あの時と同じ人だと思うんですけど」
「あの時と同じ」
「ええ、昨日の朝ここに来るときにまたいたんですよお。誰だろうと思ってそれとなあく見たんですけど腰が曲がっていて顔がよく見えなくて。でも普段ここいらでは見かけないから近所に住んでる人じゃないわ」
「はあ。郁さんは近所の人ではないお婆さんに二日連続して遭遇しているんですね」
「そうなんです!嫌でしょ?喪服みたいな着物着てて」
「まあ、疑おうとすればどこまでも疑えるものですからね。そうそう、見張られているような気がするって」
「実は、昨日の朝にそんなことがありましたでしょ?そのあと、お昼くらいに郵便屋さんが来て。アタシしか手が空いていなかったから正門で対応したんですけどね、その時にまたあのお婆さんがちらっと見えたんですよ。通りの反対側で立ち止まって巾着の中を何かモゾモゾさせているんですけれども意識はこっちへ向いてるっていうか。わかります?あれ、明らかにウチの中の様子を気にかけている感じでしたよ、もう怖くって」
郁さんは、言うこと言ってスッキリしたご様子でホッと肩の力を抜いたはいいものの、眼だけはギョロギョロし続けていました。
「この話は、もう雅美さんに?」と私が聞くと、郁さんはまだだと言いました。私は、
「余計な情報はあんまり雅美さんに伝えても仕方がないと思いますので、この話は私から伝えておきますね。郁さんは気にせずいつも通りにしていてください」と、言いました。
翌日、仕事が終わって初台御殿へ向かい、勝手口の裏門に面する道を曲がると、例の下り坂がありました。喪服みたいな着物を着たお婆さん。。。私はふと立ち止まってしばらくその方を見ていると、その時、
「おつかれまさです」
と雅美さんが後ろからポンと声をかけて来ました。
「ああ、びっくりした~、雅美さん、今お帰りですか」
「はい、少し遅くなっちゃいました」
「あ、そうなんですね」
私は、郁さんから聞いた話を雅美さんにまだ言っていませんでしたので、このタイミングで言おうかどうしようか迷いましたが、雅美さんが仕事の愚痴を並べそれに聴き入るうちにいつしか放念して言いそびれてしまいました。残念、あの時、雅美さんに報告しておいたほうがよかった。というのも、郁さんだけでなく雅美さんもたびたび黒衣の老婆を目にすることになったからです。
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