第2話 二十六年前
意を決し何度も何度もチャイムを鳴らしたが、誰も出てこなかった。
そこで武家屋敷のそれを思わせる門の扉を押してみたものの、門はびくりとも動かない。
門の脇にある勝手口へ目をやる。
引き戸に手をかけた。
ギギーッときしり音がするも、開いた。
体半分くらい開けたところでスルリと抜けた。
そして門の外を振り返った。
通行人がいないことを確かめると、引き戸をそのままにして屋敷内へ目をやった。
車が三台止まっていた。
あいつの車も止まっている。
屋敷はとても広く母屋と離れが廊下で繋がっていた。
音楽が聞こえる。
クラシック音楽のようだ。
しかし、それが何の曲なのかまではわからなかった。
耳を澄ませた。
音楽は離れから聞こえる。
まっすぐそこへ向かった。
平屋の離れとはいえ、また、母屋と廊下で繋がっているとはいえ、それは充分一つの家屋としての機能は満たしているようだった。
立派な玄関までついている。
何も隠れる必要はない。
正々堂々と玄関から入るまでだ。
ドアノブに手をかける。
鍵はかかっていなかった。
不用心な奴だ。
上り口に履き物は一つも脱ぎ捨てられていない。
だから、中に誰がいるのか、何人いるのか、見当が付かない。
せめて人数くらいは把握しておきたかった。
しばらく逡巡した。
でも、もうそんなことはどうでもいい。
あの子さえいてくれればそれでいい。
土足で玄関を上がる。
あの日あいつがしたように。
あのクラシック音楽は廊下の一番奥から聞こえる。
また逡巡。
あの子を見つけるのが先か、それとも、あいつと話をつけるのが先か。
しかし、それも此の期に及んではどうでもいい。
廊下の右手には母屋と隔てる庭が広がっていて、ずっとガラスの引き戸が連なっていた。
廊下の左手は六つの扉が付いていた。
明らかに水周りとわかる扉は省こう。
残るは四つ。
手近な扉から開けていく。
カチャ。だれもいない。
カチャ。ここもいない。
いよいよ音楽の聞こえる部屋の一つ手前へ。
カチャ。いない。
仕方ない。
話をつけるほかないようだ。
と、音楽の聞こえる一番奥の部屋のほうへ体を向けたその刹那、突然扉がガバッと開いて男と鉢合わせした。
「だれだあ?、あっ」
総毛立つほど慄いた。
向こうは向こうでポカーンと口を開けていた。
そして、やっぱり来たのかという顔でニヤリとした。
胸の辺りを目線で舐め回し、とぼけた顔で、
「何しに来た?」
とまで言ってきた。だから、
「決まってるでしょ」
と答えた。
「ここにはいないよ」
「嘘!」
「ここはお前のような人間が来るところじゃないんだ!帰れ!」
「ふざけないで!」
ドンと男を突き放した。
男は不意を突かれてヨロヨロと後ろに数歩後退した。
その隙に部屋の中を見回した。
いた!
赤ん坊に駆け寄った。
しかし、かがんだ拍子に男に後ろから腰を蹴られ、床に突っ伏した。男は、
「ええい!」
と言って、そのまま女を赤ん坊から遠ざけ、暖炉の前まで引きずった。
女は上体を上げ、男に倒れかかろうとした。
そして、
「あの子を返して!」
と、叫んだ。しかし男は、
「うるさい!」
と言って、無理やり取り付いてくる身体を引き離し、平手で女の頬を思い切り叩いた。
女はもんどり打って頭からドサッと倒れた。
ゆりかごでスヤスヤ眠っていた赤ん坊がオギャーと泣き始めた。
それでも、立とうと前かがみになって暖炉の縁に手をかけたら、今度は思い切り暖炉の中へ蹴り入れられた。
見事に頭から突っ込みボーッと炎が上がった。
瞬時に髪の毛がジューっと音を立てた。
袖にも熱い感触が広がった。
女は思わず「ギャー!」と叫んだ。
髪がチリジリになるのに時間はそうかからなかった。
しばらく悶えていたが、それでも女は四つん這いで暖炉から抜け出てきた。
ああ、なんておぞましい姿!
おでこには髪の毛が何本かひっついて火ぶくれを起こし、眉毛も睫毛も焦げ、目玉は焼けた瞼に覆われて左右別々をギョロギョロ彷徨っていた。
すでに何も見えていないに相違なく、袖に移った火は既に上半身を包まんとしていた。
男は女の姿に腰を抜かし尻餅をついた。
が、すぐにハッとして、手近にあったソファクロスで女を覆い、布ごとフランス窓の外へ引きずり出そうとした。
しかし、布から、ただれた腕がにゅうと伸びて男の腕を弱々しく掴んだ。
女は、
「あの子を」
と、呪文のように繰り返していた。
「だ、誰が、貴様なんかに。。。」
男は女を力の限り庭に放り投げた。
女が最期に絞り出した言葉は、
「末・代・ま・で・祟・って・や・る」だった。
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