白い蛾

鳥小路鳥麻呂

白い蛾

 たかしは、もう十五分以上もそうしていた。眼下の白い蛾は、今朝の雨で湿って使えなくなってしまった両の羽を羽ばたかせ、必死に生きようとしていた。たかしはそれを眺めている。彼はそこに生物の無力さを、ひいて彼自身の象徴をも見るのであった。

――ここは、或る水曜日の公園。たかしは大学の授業を一つ終え、昼休みに昼飯を買う為にコンビニを探していたが、ふとこの公園を見つけ、ついベンチに腰掛けてしまったのだ。蛾は三センチくらいの大きさで、大きな三角形の翼は扇のように彼の白い腹を隠していた。その羽を動かし、必死に飛び立とうともがいている。しかし、今朝の大雨のせいであろうか、彼の両の翼は最早彼の身体を少しも浮かせはしなかった。

 大学生になってより二ヶ月、たかしは遂にこの無期懲役のような生活に絶望した。もともとそこには重大な欠陥があったが、それを彼は向上心によって誤魔化して来たのだ。しかし、唯生活をするだけで、情熱は日々減退し、感受性は不断の追憶を強いる。そして、過去を乗り越える為に即興でこしらえた偽りの充実は、日を追うごとに崩れて行った。彼がそこで出会った友人たちは、結局彼の期待を大きく裏切り、最早彼を不快にさせるだけの存在となった。信じられるものは、独り心の内奥に居座る腐りかけの思い出だけであった。彼は二度と人間関係で傷付きたくないと思い、感情を自ら檻に閉じ込め、あらゆる大学生活の楽しみ方を拒んだ。それでいて過去の宿題に立ち向かう勇気は持ち得なかった。

 彼は蛾を助けるでもなく、殺すでもなく、唯ぼんやりと無表情に眺めていた。時々人が通ると、踏み潰されるのではないかしらと冷や冷やする。どんな通行人も、彼の眼下の昆虫に気が付かない様子であった。結局のところ、蛾とはその程度の存在である、と彼は思った。誰の目にも触れない。しかし、確かに存在するのだ。

 彼はその光景に自らの悲惨な人生を重ねていた。葛藤と不安とによる名状し難き不快感は、果てしない追憶と悔恨とによって日々助長され、醜い嫉妬心と自己嫌悪とがそれを補完した。彼は日々不貞腐れ、衰弱し、最早その毎日に希望は殆ど尽き切っていた。唯生活しているだけで、彼の悲しみは日々強大化して行くのである。それを改善する為に何が必要なのかと考えたこともあった。しかし、結局この呪いは解けないのだろうと思う。のみならず、彼にはこの牢獄より脱する意志がそもそも無かった。一般論として喪失からの脱却を唱えはするが、実際のところ新しい生き方を始めることは、彼の心に新しい傷をわざわざ増やすことにしか思えなかった。それも嫌だった。それでも、大学が始まってから暫くは期待して見た。友達や、同じ授業を受けている女の子たちに対して優しさや情熱を期待したのだ。しかし、彼らは結局、彼を歯牙にもかけなかった。友人は表面的なものであり、すぐに彼の心を不快にさせた。それで、彼は結局全てを諦めた。最早自分には待つことしか残されていないのだと思い、嘗て見た武蔵野の紫のひともとを、もう一度出会えるまでこの胸に抱き続けようと決意した。


「蛾だ。」

と男の子が数人やって来て蛾を囲んだ。たかしは立ち上がろうとしたが、立てなかった。彼の臆病さは、幼い男の子にさえ屈従するのである。幸い、彼らは蛾を殺さずに去った。たかしはほっとしたが、己の背信を恥じた。しかし、蛾の関心は飛ぶことだけであった。彼にとって、周りに子供がいようが、一大学生の悲痛な視線が向けられていようが、そんなことはどうでも良いことであった。唯飛ぶのみ、それが問題であった。

――そうか、これが生だ。これが生きるということなのだ。

 たかしは突然その蛾が、自分とは全く異質のものであると悟った。

――俺は、あの蛾を見て自分の無力さを重ねた。届く筈の無い空に向かって必死に手を伸ばす夢想家を想像した。それが彼であり、俺であると思った。でも違う。現実はそのどちらでもなかったのだ。彼は届こうが届くまいがそんなことは気にもかけず、一秒先の生の為に今を生きるのだ。そしてこの俺は、単に空を眺めているだけである。これがどうして同じたり得ようか。

 たかしが視線を落とすと、そこに石ころが見えた。彼は徐にそれを拾い上げ、蛾に向かって投げた。石ころは蛾のすぐ横に落ちた。だんだん嫌になって来た。いつまで待ったところで彼は飛べない。どんなに努力したところで、夢は決して叶わないのだ。たかしはそれを知っている。そして、蛾は知らない。あの蛾は、死ぬまで無駄な努力を続けるのかしら、とたかしは思った。そう思うと、いっそこの足で踏み潰してやった方が良いのかも知れない、とまで思った。不可能な幻想を抱き続ける夢想家に対し、現実の冷酷さを教えることは必要かも知れない。でも、その夢想家の夢も、彼にとっては紛れも無い真実なのだ。彼はそれによって生き、それによって死ぬ。たとい客観的に見て欺瞞であろうとも、それを殺してしまうことは、それこそ欺瞞であろう。死ぬまで羽ばたけ、と彼は思った。そして、何だか勇気が出て来たように思う。

――この蛾のように、俺も生きねばならん。明日死ぬとか、夢が叶わぬとか、そんなことはどうでも良いのだ。過去を脱ぎ捨て、未来を創造する為に今を生きるのだ。この蛾のように、死ぬ直前まで人は生き続けるのだ。そして、死んだ時にはもう何も無いのだ。


 暫く彼は未来のことを考えた。今まで過去のことしか考えて来なかったように思う。だから、今眼前に聳え立つ、果てしない階段を見上げた時、自分の小ささと幼さとを感じ、彼は空漠とした万能感の接近に酔いしれた。

――俺の未来は遥かに続く。喪失は存在しない。足りないのは勇気だったのだ。

が、その希望はやがて絶たれた。


 たかしが左腕のカシオの腕時計を見ると、既に十二時半を回っていた。もう帰らないと次の授業に間に合わなくなる。それで、ベンチから腰を離そうとした時、彼は夢から覚める音を聞いた。

 クチャ

と、それは極めて小さく、しかし、心の内奥まで響き渡った。蛾が踏み潰されたのだ。

「うわぁ、何か踏んだ!」

と、若者は言って隣の女を見た。彼女は美しい顔を歪め、白い蛾に生理的な拒絶を示した。

「虫じゃん。気持ち悪い。」

やがて、彼らは去った。

 たかしは、それらの情景を絶望的に眺めていた。そう、蛾は死んだ。あまりにもあっけなかったから、殺されたことにすら気付かなかっただろう。

――蛾は死んだ。あれほど真剣に生きていたのに、殺される時は一瞬だ。そして、こうも切ないものか。

 彼は蛾を痛んだ。そして、先ほどの勇気も失ってしまった。けれども、彼は今を真剣に生きようと決意した。勿論、過去に犯した過ちを焼却することや不可能な未来を約束することは、どのような手段によっても成し得ないだろう。唯今を生きるのだ。今目の前にある、彼に与えられたささやかな幸せを生きるのだ。夢の欠片を一つ一つ丁寧に拾い集め、そして、それらを繋ぎ合わせて再び幸福を紡ぐのだ。そうすれば、彼はいつの日か、失われた過去を再び取り戻せる筈である。過去の自分は死人に同じだ。過去は確定しており、今更何も変えられないのかも知れない。しかし、未来はどうだろう。未来は如何様にも変えられるだろうか。いや、それもやはり過去の延長であろう。今の習慣が過去も未来も規定する。この悲しみより脱却する為に、彼は今を生きることが必要なのだ。


 たかしは力無く立ち上がった。コンビニには行かなかった。腹が減っているが、もう仕方ない。彼はゆっくりと公園を去った。

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