第17話 泣く子と獅子には勝てぬ 4

 結論から言えば、実験の授業は大変うまくいった。

 身近な物質の結晶を作るのが実験のテーマで、素材は前回の授業であらかじめ決めてある。色々失敗もあったが、塩や砂糖と言った身近な素材で結晶を作ることに成功した子ども達は、嬉々として宝石のような結晶をデータに残したり、他のグループと比較しあったりしている。いくらペーパーレスの時代とはいえ、実際に体験することは教育には欠かせないものである。

 ムツミは子ども達の目の輝きを見て、この授業を実施してよかったと思った。

 懸念していたキヨシのグループも、女の子とレオのお蔭で他のグループよりも却って盛り上がり、実に楽しそうに取り組んでいた。

 と言うのも、砂糖の結晶が大きく成長していくのに興奮した、実は甘党のレオが、我慢できずに発展途上の結晶を口に入れてしまい、ムツミと女の子達に厳しく叱られ、はわわとヘコんだところをキヨシに励まされるという、非常に珍しい場面のおまけ付きとなったからだ。

 わいわい騒ぐキヨシのグループを、忌々しそうに睨みつけるジュンヤにレオは気が付いたが、特に文句を言うこともなかったので、一生懸命に指導を行うムツミの邪魔になってはならないと放っておいた。

 

 そして授業が終わった。

 子ども達は次々に教室から出てゆき、実験室には後片付けをするムツミとレオ、そしてミドリノが残った。

「レオ先生、今日は授業を盛り上げてくださってありがとう」

 ミドリノはすっとレオに寄り添いながら礼を言った。

「……」

「この間みたいなことがあって、あなたがいなかったらこの授業はもっと妙な雰囲気になっていたでしょうから。結晶を食べて見せたのも、子ども達を和ませるための演技だったのでしょう?」

「旨かった」

 例はむっつりと器具を棚に仕舞い込みながら言った。ミドリノは何もしていないが、ムツミはくるくると動き回ってシリンダーを洗ったり、管を巻いたりしている。白衣姿も愛らしい、とつい目が追ってしまう。しかし、ミドリノは頓着しなかった。

「ま! 面白い人ね。どう? 今夜食事でも。とても美味しいステーキのお店があるのよ」

「いや、いい」

 木で鼻を括ったような素っ気なさに一瞬ミドリノは鼻白んだが、すぐに立ち直った。なかなか打たれ強い。

「あ! ムツミ先生、そこのビーカーも洗って仕舞っておいてね」

「はい!」

「あ、俺が……」

「ああん、重い! レオ先生お願い」

 ミドリノはいきなり卓上顕微鏡を持ち上げて、わざとらしくよろけた。レオはミドリノに触れないように顕微鏡を取り上げる。

「ああ、ありがとうございます。それにしてもジュンヤ君はいつにもまして立派だったわねぇ。グループを指揮して、てきぱきと動いていたし。キヨシ君も珍しく生き生きとしていたわね。レオ先生と一緒のグループにしてよかったわ」

 ミドリノはあたかも自分がその提案をしたかのようにレオに語っている。前回の授業にレオは参加していなかったのだから、何を言ってもいいと思っているのだろう。

「ムツミ、大丈夫か?」

「ええ、こっちは大丈夫。レオ君はミドリノ先生を手伝ってあげて?」

「あ……ああ」

 ムツミは器具を洗いながら鏡に映ったレオを見ていた。

 いかつい黒レザーを纏っていても、平凡なコットンを身に着けていても、彼は美しかった。武骨そうな大きな手は意外に器用で、今日も繊細な実験器具を扱ったり、薬品の分量を計測したりしていた。

 無機質な実験室での立ち姿もサマになっている。彼のサイズの白衣がなかったので、まくりあげたシャツから筋肉によろわれた腕がむき出しになって、なのに粗暴な感じはしない。

 彼の周りには、きれいな女の人が常に大勢群がるのだろう。

 彼は魅力的な上に優しい。女性が放っておくはずはないのだ。そのうちの幾人かには食指も動くことだろう。現にミドリノは事あるごとにレオに付きまとっている。ジャポネーゼにしては背の高い彼女は、レオの傍に立っても遜色はなかった。

 あ……あれ?

 ムツミはいつの間にか不愉快な思考に陥っている自分に気が付いた。

 嫌だ、こんな気分は。実習中なのに。

 これでは先日ミドリノに注意された通りになってしまう。

 気持ちを切り替えたムツミが台の上を拭こうとペーパータオルを引っ張り出した時、レオがす、と背後に立った。

「レオ君?」

「しっ」

 レオが眼下の中庭を注視していた。

かなり距離があるが、下のざわめきが立ち昇ってくるのを感じているのだろう、金色の目が細められる。集中しているのだ。

「すまんがちょっと行ってくる」

 そういうなり、レオは窓を開けて外へと飛び降りた。

「わ!」

「ひえっ」

 ムツミも驚いたが、ミドリノは腰を抜かしている。無理もない。ここは三階なのである。だがムツミは、直ぐに機能を回復させ、実験室の外にある非常階段を駆け下りた。

 レオ君は何かに気づいたんだ!

 

 ダン!

 突然上から降ってわいた大きな塊に、少年たちは一斉に振り向いた。

「うわ!」

「レ……レオ先生!?」

「あんな上から飛び降りて……?」

 金色の髪を揺らして野人が立っていた。

「何していた?」

 レオは真中にいるジュンヤに静かに尋ねた。その後ろにキヨシが俯いて立っている。

「お……俺たちはいつもみたいに昼のサッカーのチーム分けをしてたんですよ。ね? レオ先生もやろうよ? 俺今日は負けないからね。ねぇ」

 ジュンヤは狼狽うろたえたようだが、直ぐにいつもの人懐こい笑顔を製造して答えた。

「オマエノセイデ、オレガチットモメダテナカッタジャナイカ。セキニントッテ、コレカタズットオレノイウコトニ、スベテシタガエ。お前はこう言ったんだろ? サッカーの事なんで一言も言ってねぇよな」

「……っ!」

 思いがけない言葉にジュンヤの笑顔が凍りつく。

「……違うか?」

「……え、や……」

「こうも言ってたよな。センセイタチノ、ドウジョウヲヒイタカラッテ、イイキニナルナヨ。オマエハ、オレノヒキタテヤクナンダ。……どうだ?」

「ひぃ」

 レオの言葉はおそらく一言一句間違ってはいないのだろう。みるみる青ざめていくジュンヤの膝が震えた。

「レオ君!」

「……レオ先生」

 そこへムツミ達が駆けつけてきた。必死で階段を下りてきたのだろう。息が上がっている。

「聞こえたわ。本当なのジュンヤ君、キヨシ君にそんなひどい事言ってたの?」

「ジュンヤ君がそんなことする訳ないでしょう? あなたは黙っていなさい!」

 遅れて駆け付けたミドリノがぴしゃりとムツミに怒鳴った。

「あんたこそ黙れ。こいつが今キヨシに言っていたことは、あんたの言う『裏表』じゃねぇのか」

「ジュンヤ君、そうなの?」

 ムツミが前に出た。

「お、俺……俺は別に何にも……」

「そうですよレオ先生、突然こんなこと言われたら誰だって戸惑います! 子どもを脅かしたりするのは教育的では……」

「嘘を誤魔化そうとする子どもを、さらに誤魔化そうとするのはキョウイクテキなのか?」

「!」

「俺は今こいつが言っていることをこの耳で聞いたんだ。俺の言ってることにひとっつも間違いはねぇだろう?」

 レオは周りの少年たちを見渡した。彼らは一様に目を逸らしたり、俯いたりしている。その態度はレオの言葉が間違っていないことを如実に示していた。

「この数日の経験から考えても今の言葉はキョウイクテキじゃねぇよな? 俺は教師でもモラリストでもねぇが、こいつやお前等が卑怯者だって事は分かるぞ」

 レオは長い指でジュンヤの額を指す。

「ひ……」

 少年が思わず下がった。背後のキヨシにぶつかる。彼は大きくよろめき、少年たちに動揺が走った。

「おい」

「うわぁっ」

 静かな恫喝に弾かれたようにジュンヤはその場にうずくまった。レオは厳しい顔つきでそれを見下ろす。

「俺は人間の子どもの事はよく分からんけど、嘘つく奴と、そうでないやつぐらいは分かるぞ。お前は嘘つきで卑怯者だ」

「うっ、うわああああ!」

 ついにキヨシは身を投げ出して泣き始めた。周りの少年たちも項垂れている。

「レオ君、もういいわ。もうやめて」

 ムツミは堪らなくなって少年たちの間に割って入った。ムツミの目も潤んでいる。

「ムツ……なんでお前が泣く? 俺が悪かったのか? すまん、許してくれ」

 途端にレオの口調と態度ががらりと変わった。そう、滑稽なくらいに。皆が取り乱していて気が付いていないのが幸いである。

「俺……ムツミが気をつけてろって言うから……」

「違うよ! レオ君は悪くない。悪いのはジュンヤ君とみんなだよ。君達自分がなにしたか分かる? 少しゆっくりで大人しいクラスメイトを苛めてたんだよ」

 ジュンヤはまだひいひいと泣いている。立ったままの少年のうち何人かも泣き出した。

「ムツミ先生……俺、もういいよ……」

「キヨシ君?」

「俺、愚図だから……なんでもすらっとできるジュンヤが俺見ていらいらするの……分かってた……でも俺どうしようもなくて……苛められても仕方ないって思ってたんだ。でももういいです。今日の実験はほんとに楽しかった。仲良くしてくれる奴もいたし……俺もう平気だよ」

 キヨシはそう言って前に出た。

「俺、それでも学校が好きだから」

 遠慮がちな少年の微笑み。

 レオはずしんとくる衝撃を感じていた。弱い人間の、更に弱い子どもの群れ。その中で最弱の個体が群れのリーダーに嫌われても、その学校むれに愛着を感じていると言う。

 人間は不思議だ……。

 そして彼のつがいであるムツミもまた人間なのだ。レオにはまだまだ知らなければいけない事が多すぎるようだった。

「はい、みなさん。一旦教室に入りましょうか?」

 穏やかな声にその場にいた全員が振り返った。

 そこにはヤマシキを従えたアズミが立っていた。

「次の授業はクラスの時間に切り替えましょう。先生たち五人とみんなで今までの事、これからの事、話し合いましょうね?」

 

「レオ君……今日は……いつもだけど、どうもありがとう」

「怒っていないのか? ムツミ」

「なんで? レオ君がいないとキヨシ君もジュンヤ君もずっとあのままだったよ。あの後、ホームルームでアズミ先生がみんなが発言できるようにしてくださって、今までジュンヤ君に逆らえなかった子も意見を言えて、良かったと思うもの。ジュンヤくんも反省していたようだし、すっかり解決したわけじゃないだろうけど、考えるいい機会になったと思うもん」

「そんなもんなんか? 俺は学校も教育もよくは知らねぇんだ……俺にそんな機会はなかったから」

「レオ君は野人だったね? 野人は学校に行けないの?」

 ムツミは素朴な疑問を口にした。

「いや……人間に育てられた奴は、通う事もあるって聞いたことがある。でも、たいてい俺たちは一人で生きていくし、人間みたいに『群れ』ることがないから……」

「でも、レオ君はちゃんと分かってた。何が大切か、何をしちゃいけないか」

「それは別に……偶然だ」

「偶然じゃないよ。レオ君は自分で思っているほど『わからなく』ないよ? 私も昔キヨシ君みたいな子どもだったから、あの時レオ君みたいなヒーローがいてくれたらってすごく思った」

 ムツミは少し辛そうに言った。昔の悲しい思い出が記憶に滲み出てきたのだ。

「だから私、今日のレオ君見て……すごくすき……や、ステキに」

 突然言い止めたムツミに、レオの瞳がいぶかしげに細められた。

 思わず、すきって、好きって言いそうにならなかった? 私は!

 ムツミの狼狽は速やかに男に伝染する。

「どうしたっ!?」

「え!? なっなんでもないからっ!」

「何でもないことはねぇ! ムツミ。顔が赤い。まさかまた、熱でも?」

 風邪をひいた時の記憶はお互いにまだ生々しい。

「熱? ないない……本当だからっ! ってか、れ……レオ君近いよ! 顔、顔が……」

「ムツミ……俺、ムツミに褒めてもらいたい……俺が少しでも役に立ったんなら……」

 レオは悩ましげな顔でますます顔を近づけてくる。ムツミは焦りに焦った。

 どひゃあ~~! まっ、睫毛が数えられる! 長い! 私より……ってか、なんてきれいな目なの?

 ムツミは状況把握も忘れて野人の瞳に魅入られてしまった。 

 澄みきった琥珀色。まるで太陽の光を集めて結晶にしたみたい……あ……胸が――

 急に不規則な鼓動に。

 まつ毛が起こす僅かな風さえ感じてしまいそうな距離。レオの喉が掠れた音を漏らした。それは獲物を前にした獣の溜息。

 形の良い唇がうっすらと開けられ、ちろりと赤い舌が覗く。

「ムツミ……むっちゃん」

 レオがうっとりとつがいの名を紡いだ時、

「失礼!」

 ノックもなしに扉が開かれた。脊髄反射で野人がつがいを背後に隠す。

「あら?」

 ミドリノである。

「はっはい! なんでしょう、ミドリノ先生!」

 慌ててムツミがぎくしゃくと前に出る。レオは苦りきってそっぽを向いた。ムツミに気を取られる余り、他の人間の気配を感じ取れなかったのである。

「いえね、さっきの事ね。私も反省してるって言いに来たんだけどね! ちょっと色々先入観持ち過ぎて、判断の誤りがあったのよ。自分がこうあってほしいって思い込みに捕らわれていた訳。今回はムツミ先生の判断の方が正しかったってことを言いに来たんだけど、お邪魔だったかしらねぇ」

 ミドリノは女の勘で微妙な雰囲気を感じ取ったらしく、つっけんどんにまくしたてた。

「いえ! そんなことは! わざわざ伝えに来て下さってありがとうございます」

 ムツミはぺこりと頭を下げた。

「そ。まだまだ実習中です。浮ついた態度は禁止だって言ったわね。明日からも頑張ってちょうだいよ! ……レオ先生も。んふ」

 いいところを邪魔され、腹立ちまぎれに睨みつけた目の前で扉は再び閉じられた。

 もちろん前回の仕返しである。




  

 

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