黒猫は、無色透明に戯れる。
節トキ
かわいい猫の招き方
1.遭遇
猫を探しに行ったはずなのに、何だかおかしなものに遭遇してしまった。
六月も終わりに近いというのに、連日続く強い雨足は一向に衰える気配がない。微かに漂い始めたはずの夏の香りも降りしきる雨に打たれて沈み、気配を潜めている。重く暗く垂れ落ちた夜の帳はひどく陰鬱な闇となり、湿気を伴いながらどろりと淀んだ様相を描いていた。
時刻は午後十時前。
元々人の出入りが少ない寂れた公園にあるのは、沈黙と静寂だけであった。公園の奥には、遊歩道へと続く形ばかりの粗末なアーチゲートが口を開いている。
その遊歩道を逸れ、脇に生い茂る鬱蒼たる雑木林の中を、彼女は黙々と歩いていた。
手入れもされず、伸び放題となった枝葉が幾重にも折り重なっているせいで、内部は昼間でも薄暗い。こんな時間なら尚更だ。
しかし、遊歩道に等間隔で設置された街灯の光が辛うじて届くおかげで、心許ないながらも何とか足元の視界くらいは確保できた。
彼女はビニール傘を片手に、吊り気味の大きな目をあちこちに巡らせて頻りに辺りを伺っていた。
赤茶のショートボブに縁取られたその面に、表情の類は殆どない。
枝先から垂れ落ちる水の礫をシャツ一枚の無防備な背中に受けても、落葉に埋もれた泥溜まりに足首まで嵌り込んでも、太い木の根に躓いてデニムごと膝を擦り剥いても、軽く眉を顰める程度で、それ以外の顔の筋肉は全く動かさない。
いくら探しものに熱中しているからといえ、彼女の徹底した無表情と淡々とした挙動はひどく不自然で、何も見えていないかのような瞳はぼんやりと夢現を漂う夢遊病患者――というより、機械人形じみて無機質ですらあった。
彼女が探しているのは、ひと月程前に見掛けて以来、毎日餌付けをしていた小さな黒猫だった。最近になってやっと近付いてくるようにはなったが、いまだに触らせてはくれない。餌を与えている最中でも、手を伸ばせば途端に牙を剥いて威嚇し、結局は逃げてしまう。
少しずつでいいから慣れてほしい、懐いてほしい、触れさせてほしい、出来ることなら連れて帰りたい。
そんな期待を込めて、彼女は今夜もここへ立ち寄ったのだった。
乱立する木々の隙間を、うろうろと彷徨う細い足が止まった。視界の端に、何やら黒いものを捉えたからだ。
そっと近付いてみると、それは残念ながら彼女の探している黒猫ではなかった。もっとずっと大きな生物――どうやら人間の男ようだ。
こんな天候の中、こんな時間こんな場所にいる人間といえば浮浪者か、山菜泥棒くらいしか想像がつかない。何らかの事情があって訪れた者、あるいは自分と同じく子猫目当ての心優しきお節介という可能性もなくはないが、それに賭けるほど彼女は愚直ではなかった。
関わるべきではないと至極真っ当な判断を下し、即座に踵を返す。だが、気配を察したそいつが振り向く方が早かった。
相手は、二十代中盤くらいの男だった。
身に付けている黒いスーツは随分と仕立ての良いものらしく、ずぶ濡れになっても質感を保っている。切れ長の涼やかな目は、凛々しさや鋭さよりもたおやかで上品な印象の方が強く、すっきりとした曲線を描く細面は、日に焼けたことなどない令嬢のように白く頼りなく、薄闇の中で際立っていた。
だが、全体的に漂う育ちの良さと身なりの良さとはちぐはぐに、漆黒の髪は子供がでたらめに切ったみたいに不揃いで――何より、その口元は赤黒く染まっていた。
ビニール傘を叩いて流れ落ちる雨だれ越しに、彼女は静かに男を見つめた。
正確には、男の手元だ。
そこには、探していた黒猫が、変わり果てた姿となって握られていた。
どうやら男は、飢えを癒すため、猫を食べていたらしい。
頭部だけとなったそれを認めても、彼女の顔に恐怖や嫌悪の色は浮かばなかった。ただ一つ、深い落胆の溜息を落としただけだ。
すると男は、口内に残っていた屍肉を嚥下し、薄っすらとくちびるを開いた。
「あなたの、猫だったんですか?」
穏やかで落ち着いた優しい声音だったが、悼んでいるとも面白がっているとも受け取れる、不思議な口調だった。
彼女は答えず、無造作に男に近付き、その手から猫の首を取り上げた。
間近に見ると、残された頭は綺麗なものだった。目を閉じた黒猫は、首から下を失ったことなど気付きもせず、のんびりと眠っているかのようだ。
しかし、その瞳が二度と開かれることのない証拠に、雨水と乾き始めて粘ついた血液で濡れた肉塊は冷たい。
彼女は微塵の温もりも残されていない猫の頭を胸に抱いて、優しく撫でた。
想像していた形とは違えど、願いは叶った。
そうして存分に愛撫し尽くすと、彼女は地べたに座ったままぼんやりとこちらを見上げている男の掌に、そっと猫の頭を返した。ついでに、コンビニのビニール袋を投げ落とす。
「あげる」
短く告げた彼女を、男は不思議そうに眺めてから戸惑いがちに答えた。
「ありがとうございます。でも、いいんですか?」
「もう要らないから」
コンビニ袋の中身は、二つの猫缶だった。
猫を食べるくらい切迫しているのなら、猫缶だって食べるだろう。与える相手がいなくなったのだから、持っていたところで意味がない。
袋を持ち上げて内容物を確認すると、男の口角が僅かに上がった。笑ったのだ。
「優しいんですね」
語気が柔らかに緩む。
だが、男が浮かべた微笑は、悦びを堪えているような何かを企んでいるような、甘いような冷たいような――見つめていると、どこか不安を誘うものだった。
それを見た途端、彼女は何故こんな得体の知れない者と関わってしまったのかと、急激に冷えた頭で今更ながらに後悔した。
「あ、待ってください。娘さん、何かお礼を……」
「要らない」
背を向け一言吐き捨てると、彼女は早足に元来た道を戻った。男は追って来なかった。
これが彼女――
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