第二話 お葬式

 南無妙法蓮華経――。


 お坊さんの読むお経ってきっと安眠効果があるに違いない。ああ、心が休まる――でもまだそんな風に考える歳でもないから、ただただ退屈で眠かった。一定のリズムで、一定の音階で、右の耳から入って頭の中は通過駅扱いで左の耳からするっと出て行く。


(足、しびれてきちゃった……)


 学校指定の白いソックスの爪先をもぞもぞと動かし、正座中のお尻の位置を微妙に変えてみたりなんかしたけれどあんまり効果はない。


「このたびは――」


 おじいちゃんと何処か似ている気のする、見たことのあるようなないような顔が代わる代わるあたしの前に現れては、何処かで聞いたことのある科白を口にした。そのたび、あ、はい、と答えて、正座の姿勢のまま頭を下げる。これだってあたしじゃなくっても大丈夫そう。ロボットとかAIとかと交代しても、案外誰も気付かないんじゃないかしら。


 フキンシン?

 分かんない、そんなの。まだ中学生なんだし。


 と、突然、


「おっ! 遅くなりましたっ!」

「あ。パパだ」


 思わずお坊さんのお経も止まる。でも、すぐに再開された。やっぱプロだね。あたしなら何処まで読んだか忘れちゃうもん。


「遅かったじゃん。いや……早かった?」

「そ、そりゃ当たり前だろ、麻央。だって――」


 畳に上がり込むなり這うようにしてあたしの座っている隣まで辿り着いたパパは、遅まきながら真っ黒なネクタイを結び始めた。あら、黒のスーツなんて持ってたんだね。初めて見た。レーフク、って奴でしょ。


「い、いやあ、さすがにアメリカからだと一瞬でって訳にはいかないんだよね。でもほら、僕の会社、自家用ジェットとかヘリとか持っててさ。超デカい奴なんだ。それに乗って――」


 照れ隠しなのか言い訳なのか、いつものようにへらりと笑いながら話し始めたところで、ようやく周囲の空気から完全に浮いてしまっていることに気付いたっぽい。


 はぁ……。


 こういうところちっとも変わらない。

 ママも呆れて出て行く訳だ。


 え、えーと……と、パーマだか寝ぐせなのか分からない頭をぽりぽり掻きつつ、やっとあたし以外にも見覚えのある顔をみつけたパパ――真野正義まさよしは、もう一度畳の海の上を両手で漕ぐようにして、ずりり、と一人の女性のところへ這い寄った。


「ごめん、遅れた! いろいろ面倒かけちゃったな」

「いいよ、遠いんだし。それより、喪主できるの?」

「あ、あははは……自信ないけどね。やんないと」


 その女の人――瀬木乃和子さんは美孝のお母さん。

 そして同時に、パパの従妹いとこでもある。


 パパのために座る場所を譲ろうと腰を浮かせたところで、和子おばさんは眉をしかめながらいまいち決まってないパパのネクタイに手を添え、きゅっ、と位置を整えた。そうしてから、うん、と納得したように頷いて微笑む。


「じゃ、ここ座って。あたし、煙草吸ってくるから」

「あれ? まだ止めてなかったんだ?」

「何、悪い? 好きなんだよ、煙草も銀じいもさ」

「銀じい、和ちゃんのことお気に入りだったよね」

「ま、ね」


 和子おばさんはぶっきらぼうに応え、ぽん、とあたしの肩を労うように叩くと、ついでに支えにするようにぐぐっと体重をかけてから、ふらり、と玄関を出て行った。まだ温もりの残る座布団に慣れない正座をしたパパは、ふう、と一息ついてから、あたしだけにそっと囁いた。


「……麻央もちょっと外の空気吸ってきたら? あとはパパがちゃんとやるから。身内だけの葬儀ってことにしてあるから、近所の人が来るって言ってもそんなに来ないと思うんだよね。それに、何たってこの辺年寄りばかりだからさ――」


 確かに。


 このご時世、銀じい――真野銀次郎ぎんじろうがやや時代遅れになりつつある昔ながらの煙草屋を営んでいたここ下町界隈は何処もかしこも高齢者ばかりだ。


 今の若い連中はよ――よく銀じいは言っていたっけ。


 あいつらはもう煙草なんぞに興味がねえのよ。この世にゃ電子なんたら言う、煙の出ねぇもっと便利なモンがあるんだと。だからよ、ウチの常連はじじばばばっかりさ。そのお得意さんだって、毎年一人、また一人とおっ死んじまっててな。俺だって近々その仲間入りだ。なんつっても――。


「……じゃ、散歩してくる。そこらへんだけど」

「ああ。気を付けてね、麻央」


 まだ足が痺れてるのを誰にも気付かれないように、一歩一歩、しっかりと踏みしめながら、訪ねてきた皺くちゃのおばあちゃんと入れ替わるようにして玄関を出た。


 享年、九十六歳。

 さっき誰かが言ってたっけ。大往生だって。


 でもその科白を聞いた途端、和子おばさんが、きっ、とその人を物凄い顔つきで睨み付けたのを覚えている。それでもおばさんは、ええ、そうですね――とだけ短く答え、丁寧に深々と頭を下げた。その人が帰った後、おばさんはあたしにだけ聞こえる声でこんな科白を呟いた。


「あの人、長生きして良かったですね、って言ったんだよ。何が良いのさ。死んじまったのに嬉しい訳ないじゃない。嬉しい訳なんて……」


 だよね。

 言葉には出さなかったけど、あたしもそう思う。


 でも、不思議だ。

 だって、あたしまだ――。


「う……うっ……ううううう……!」


 裏手の狭い庭に行こうとして、曲がり角の向こうから聴こえてきた低く押し殺した嗚咽おえつに、はっ、として足が止まった。


「う――ううううううううううううううううっ!」


 ふわり。煙草の匂い。

 何だかそれは、ちょっとだけ雨の匂いがした。


「う――ううううううううううううううううっ!」


 とてもそんな場面に顔を出せる気がしなくって、行き場を失くしちゃったあたしは手を後ろに組んでそっと壁に寄りかかった。




 そして、空を見上げる。




 澄み渡った空に、ひょろりと縦に雲が伸びている。

 何だか銀じいのふかす、煙草の煙を思い出した。


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