序(二)

「しっかし不便だよね―。こっちからの介入がなきゃ、陣からも出られないなんてさ。檻の猛獣だね。あ、魔術使う分、こっちの方が厄介かな?」

「うるせーな、バカ」


 温泉だけが名物の小さな村の、とある酒屋でのこと。

 夏の今は村全体で客が少なく、この酒屋にも数えるほどしか人がいない。二人は、他に誰も座っていないカウンターで隣り合っていた。


「それにしたって、お前、力強すぎ。触れるだけで十分だっての。俺の繊細な手が吹っ飛んだらどうしてくれるんだ」

「繊細ねえ?」


 グラスを傾けながら、そう呟いた。

 男が不機嫌そうに、その実笑いをかみ殺しながら頷く。こちらも、グラスを片手にしている。


「そうだ。どうするんだ」

「逃げるよ。もちろん」

「へ―。この俺から逃げられると思ってるのか」 

「当然」


 伸ばしっぱなしの長い髪を無造作にたばねた少女が、にっこりと微笑ほほえむ。

 はたから見れば無垢むくな子どもの笑顔そのものだが、この場合は嫌味意外の何物でもない。

 オレンジの髪を短く刈り込んだ長身の男は、少し前に少女と打ちあわせてしびれたままの右手でグラスを握り締めた。

 たやすく割れてしまったグラスを見て、少女がわざとらしく溜息をついて見せる。


「未熟者だねえ」

「たかだか三十そこらのガキが」

「彼女いない暦三百十二年野郎」

「…やるか?」

「やろうか?」


 そっぽを向いていた二人は、この一言で悪戯を仕掛ける仲間かのように、同時に顔を見合わせ、破顔した。

 少女はカウンターに身を乗りだし、男は平然とグラスの破片を空いた皿に集め、新しいものを手に取る。


「おじさん、飲めるお酒全部出して」


 密かにこの異色の組み合わせをうかがっていた店主が、驚いた顔をする。せいぜい十二、三の少女の口にする台詞せりふだろうか。


「お嬢ちゃん。そんな事を言ってもだね…」

「必要金額、ここに書いてね」


 出された白紙の振り込み用紙を、胡乱うろんそうに見る。とてもではないが、こんな子どもが大金を持っているとは思えなかった。

 用紙を持って行って申請したところで、それだけの金が振り込まれていなければ、受け取る事は出来ない。


「現金がいいならそうするけど…足りないかもしれないよ?」


 少女は、そう言って足元に投げ出していた袋を引っ張り上げた。

 袋の口を開けて、店主に向ける。中身は全て紙幣。足りないどころか、この店を買い取っても釣が出るほどだった。


「は、はい、今すぐに!」


 店の奥に書け込む店主を認めて、少女と男が目で笑い合う。この頃には、他の客たちもこの異変に気付き始めていた。

 自分たちに集まる視線を感じながら、少女がくるりと後ろを向き、笑顔で告げる。


「飲みたいなら一緒にどうぞ。今日はあたしがおごるよ」


 その言葉のすぐ後に、店主が持てるだけの酒を持ち、姿を現す。はじめは戸惑っていた客たちが酒盛りを始めるまで、長くはかからなかった。

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