第2話
三ヶ月くらい前のことだったろうか。
連勤明けのたった一日の休日、布団の中でネットサーフィンをしていたとき、たまたまとあるアプリの広告を見た。禍禍しい黒色の背景に、丸っこいピンクの文字で「絶対呪殺。β版」と書かれたアイコンが表示されているだけで、説明は何もない。だが、その時の俺は、気づけばアプリをインストールしていた。そのときはごく当然のことに思えたのだ。来る日も来る日も、朝のホームで、次の電車に飛び込もうかと悩まぬ日のない俺にとっては。
これは他のSNSツールに連携させて遊ぶものだった。連携してから起動させると、開発者メッセージが表示されたあと、またSNSの画面に戻る。「絶対呪殺。β版」を連携すると、元のSNSで「ハートマーク」だったいいねボタンが「五寸釘」の形に変形し、押すと血飛沫のエフェクトがかかる。これはフィルターをかけるようなもので、変化は自分のスマホでしかわからず、他の人には普通のSNSのままに見える。だからあとは非公開アカウントを作り、憎たらしい奴の投稿に、ひたすらいいねをすればいいだけだ。相手の心臓に釘を打ち込んでやる光景を夢想しながら。
また、他の遊び方もある。他人や自分の投稿にいいねをし、その投稿が他のユーザーに拡散ボタンを押されれば押されるほど、自分の呪いの効き目が大きくなる……というシステムだ。投稿の中身は何でもよく、拡散されることだけが肝心で、つまり昔流行った「不幸の手紙」や「チェーンメール」の、さらに陰湿さと悪質さを増したようなものだった。自分で一度呪いを込め、それが何も知らない誰かによって拡散されていけば、あとは勝手に呪いが強まる。理屈はそんなところだ。
呪った回数や効き目は数値化され、アプリのホームで確認できる。数値が一定の値に達するたび、報酬としてゲーム内アイテムが贈られ、より高度な呪いが行えるようになる。
初めは、気持ち悪い、悪趣味だ、と思った。
けれど心身共にボロボロだった俺は、気づけば、「絶対呪殺。β版」にすっかりのめり込んでいた。
朝昼夜、暇さえあればSNSを開いた。俺の手柄は全て自分のものにするくせに、毎日最低三回は罵声を浴びせて人格否定してくるクズ野郎……一番殺したい部長はSNSをやっていなかったが、俺はそれでも構わなかった。知りうる限りの会社の人間のアカウントに、いいねという名の呪いを送った。人がこんなに苦しんでいるのに、何もせず見て見ぬ振りをしている奴らだって同罪だと思った。しかし職場だけでは収まらなかった。かつて俺の生まれた家が貧しかったからというだけで、いじめてきたクラスメイトたちや、大学時代に俺を「どんくさい」と陰でくすくすと笑っていた奴らのアカウントも調べあげ、片端から呪ってやった。
リストを作成して常にタイムラインを監視し、新しい投稿があり次第、即呪う。
絶対殺すと、そう思った。
しかし、なかなか死んではくれなかった。
肥えたゴキブリ並みにしぶとい部長を見ながら、苛立ちと絶望に苛まれる日々の中、スマホで簡単にできる呪いの儀式は、いつしか俺のルーチンとなっていた。呪いに科学的な根拠がなくても、ほんのわずかな望みでもよかった。俺はただ、生きる希望が欲しかっただけだった。
「あなたは、いったい……?」
俺が尋ねると、能面の男は答える。
「貴殿の呪詛の点数は、全ユーザーの中で第二位。故に、神は貴殿を『祭司補佐官』に任命された」
「俺が二位……ということは、あなたが一位?」
「如何にも」
彼はスーツの袖を捲り上げた。シャツの下の皮膚は、治ることのない酷い火傷の傷跡に覆い尽くされていた。しかもそれに留まらず、腕のところどころには大きな青い痣が浮かび上がっている。
「多くの人々は、ふつう、考えもしないことだが」
極楽から揺蕩ってくるような穏やかな声で、腕の傷をさすりながら、祭司は言った。
「呪いというものは、決して特別な感情ではない。喜怒哀楽、食欲や睡眠欲と同じように、自然に湧いて出るものだ。生きている限り、人は呪いから逃れられない」
俺は見るに見かねて、彼に尋ねた。
「その傷は、一体全体どうしたんです……?」
「貴殿に語って聞かせるほどのことではない。私の全身の皮膚は、このような火傷の跡と痣に覆われている。家族もなく、暗い隔離病棟にずっと閉じ込められた私には、外部と繋がるすべは、インターネットしかなかった。けれどそこに幸せなどなかった。どうして神は、知らなくてよかった他人の人生の輝きを、わざわざ私に見せつけるのだろうかと、そう思わない日はなかった」
祭司はスーツを戻し、腕を仕舞った。
「けれどそれも、全て神の御意志だったのだと、今ならわかる」
中に入って詳しい話をしたい、と彼が言うので、俺はとにかく頷いた。
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