第24話 菊川。
昼食の席で菊川が問いかけた。
「来週は学会で京都へ行くけれど欲しいものはあるかい」
悦子は顔をほころばせる。
「お抹茶などがあれば」
「ははは、キミは欲が無いな。着物って言ってみたらどうだい」
豪快に笑う菊川
一流料理を堪能した後、二人は待たせていた車に乗る。菊川は午後も仕事があるので病院に戻る。それに同伴するのが悦子の勤めだった。
院長室で悦子はよく本を読んだ。ほとんどは健康知識を深める本。病院の待合室に置かれているような本が多かった。ほとんど菊川のチョイスで本屋に立ち寄りよく買ってくれた。今夢中で読んでいるのは元薬物中毒者のエッセイ、薬物に溺れていくさまが面白くて読み入っている。
愛人を始めた時、最低限の生活は保障するがそれ以上のものは出せないと言われた。とくに多くを望んでいなかったので二つ返事で引き受けた。菊川のいう最低限の生活とは着る物や食事も含まれており、悦子はこれまでと変わらず贅沢が出来た。時々、宝飾品なども贈ってくれて十分だった。
「コカインって使うとどんなかしら」
院長室のソファに腰かけてぼそりと呟く。
「おいおい、悦子。そんなものに手を出してはいけないよ」
「分かっています。でも気になるんだもの」
その時、電話が鳴った。菊川が出る。
「はい、はい。そうか分かった。今から行く」
そう言って電話を切り立ち上がる。
「急患だから僕は行くけれど、退屈なら今日は帰ってしまっても構わないよ」
「はーい」
悦子は子供のように返事をすると再び本に視線を落とした。
菊川が行ってしまい、その後も大人しく本を読んでいた。が、しばらくすると退屈になり手持無沙汰で院長室をうろつく。院長室に1人残されることはザラでそんな時いつも本棚を見たり引き出しを開けたりするのだが、面白いものも特になく院長のイスに座ってみる。ふっくらとして体を包み込むように受け止める豪華なイス。そのイスで再び本を開いた。
エッセイの著者は悦子と同じ年代の女性だった。交際男性が中毒者で付き合ううちにともに使用するようになり、月に一度だったのが週一に変わりさらに三日に一度になり、段々溺れていく。コカインを使うと昔の嫌なことを忘れられ気分がひどく良かったと綴られている。
悦子はコカインにより得られる多幸感に興味があった。今でも時々店でのことを思い出す。楽しく働いていたはずなのにこの頃思い出すのは自分のしょうもない失敗ばかりだった。
ついには善意を尽くした里香のことまで思い出し、自分のせいで彼女の人生が崩れてしまったのではないかとひどく心配になった。指輪を取り出し時々眺めては彼女はどうしているのだろうと考えている行為がそもそもいけないのかもしれない。
時々、穴を掘る夢を見る。埋めるのは死体。目が覚める頃には緊張感で汗びっしょりでひどく嫌な気分になった。
ここは病院。局所麻酔用のコカインがある。菊川にねだれば寄越してもらえるかもしれない。この頃都合よくそんなことを考えるようになった。
コンコンと音がした。悦子は顔を上げどうぞと返事した。入ってきたのは菊川夫人だった。
「あら、悦子さんいらしてたの。主人はいるかしら」
これからパーティにでも行くのだろうか。黒いドレスに薄手のきらびやかな紫のストールを纏っている。
「急患で出て行かれました」
「そう」
「ねえ、貴方も来てはいかが。パーティに。愛人だって紹介してあげるわ」
口元に下品な笑みを浮かべて笑う。
「結構です」
悦子はにこやかに微笑む。
「主人が許してるからっていい気にならないでね」
そう言うと夫人は院長室を出て行った。
「ふん、年寄りの負け惜しみね」
そう言うと悦子は立ち上がりバッグを持って院長室を出た。
婚姻関係は破綻していると菊川から聞いていた。親の決めた結婚で夫人のことはあまり好きでなかったそうだ。夫人は金持ち企業の社長令嬢で金銭感覚や価値観が全く合わず若い時は酷く苦労したと話す。高価な物をねだり、たくさんブランドバッグや洋服を買わされたそうだ。菊川が悦子に贅沢はさせられないというのはこのことを基準にして言ったのかもしれなかった。
離婚しないのは院長夫人と言うポストに満足しているから。菊川の方も今更離婚する気力がなくそのまま放置しているらしい。子もいて長男は外科の部長をやっている。娘は産婦人科の医師。
インテリジェンスな家系に悦子が割って入ることは極めておかしいことに感じられるが菊川は無学な悦子を気に入ってくれたようだった。
菊川の運転手付きリムジンは自由に使っていいと許可されていた。乗り込んで自宅まで送るよう頼む。道中運転手と会話するのも楽しみの一つだった。
「今日はどんな本をお読みでしたか」
「薬物患者のエッセイを読んでたわ。とっても面白いの」
「へええ」
「コカインってやったこと無いけれどひどく気分が良くなるらしいの」
「コカインの使用を勧めるエッセイなんですか」
運転手が笑う。
「違うわ。でもコカインを使うと嫌なことを忘れられるそうよ」
「へえ、じゃあ私も使ってみたいですね」
「何か嫌なことがおあり?」
「実はですね……」
ここからまた運転手の愚痴が始まる。面白おかしい夫婦げんかの話を根掘り葉掘り聞きながら自宅に到着した。
悦子は運転手に礼を言った後、少し待ってと言い置いて屋敷に駆け込んだ。持ってきた紙袋に入ったパンを差し出す。
「昨日焼いたの。食べて下さらない」
「いいんですか、ありがとうございます」
笑顔で受け取ってくれて悦子も嬉しく思った。車を見送り、悦子は屋敷の中へと入った。
小原がいなくなった屋敷は寂しかった。料理も掃除も洗濯も自分でこなしたが小原にやってもらったほうが何倍も嬉しかった。彼女がいるだけで屋敷は生き生きとしていた気がする。悦子はあまり現金を持っておらず、菊川に頼めば小原の一人ぐらいは雇ってもらえるかもしれない。
だが小原はすでに別の就職口を見つけている、今更ワガママは言えなかった。新たな家政婦をというのは考えられなかった。知らない人物を新たに屋敷に招き入れるというのは胃に異物を取り入れるような感覚に近かった。
寝室のクローゼットを開けると随分処分しなければいけない服があるように感じた。この先着ることはないかもしれない。でも、もしかしたら着ることもあるかもしれない。菊川は年老いている。いつまでも悦子の面倒など見てくれないかもしれない。満たされているのに不安を感じずにはいられなかった。
クローゼットの一番上の棚に手を伸ばした。母の形見の宝石箱を手に取り、確認する。指輪が2つ。1つは母のもの、もう1つは里香のもの。自分は犯罪者なのだという自覚が押し寄せてつぶれそうになる。何度も捨てようとしたがそれは出来なかった。
今になって思い出すのはこの頃自分が忙しくしていないせいかもしれない。暇さえあれば嫌なことばかり考える。そう思ってパンやお菓子を焼いて気を紛らわせている。
2つを指にはめて天にかざした。母の指輪は小指に里香の指輪は薬指に。きらきらと煌めいて綺麗だった。
だが、ふとよぎる血だまり。目を閉じてあの時の光景を思い出す。幸せなはずなのに思い出すのは過去のことばかりだった。
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