第九十四話 真なる獣

 ナオトは見ていた。

 ゆりの小さな影が、夜の闇の底へ消えてゆくのを。

 ナオトは見ていることしかできなかった。

 愛する者が、永遠に失われる瞬間を。



「ゆ、り、」


 光の結界の内で、ナオトが両腕をだらりと落とす。瞬きすら忘れたまま、ゆりの消えた湖面を見ている。


「ゆり」


 震える口から漏れた音は、側に立っている神官長にも聞き取れない程か細く掠れていた。



「……あ、あ、」



 びき、びきびきびきびき。


 薄玻璃を踏み割ったような音がして、ナオトの美しい顔に亀裂が入る。亀裂の隙間から眩い光が漏れ出し、やがてそれは首へ、肩へ、腕へと広がってゆく。


 そしてついには。




「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア"!!!!!!!!」



 およそ人とは思えない叫びが波となって地を揺らした。ナオトの内から溢れた光が眩く全身を包み、束となり柱となって天を衝く。闇夜を穿つ黄金の光。それが徐々に減じて収束した時――――ナオトは、容貌カタチを変えていた。



「ああ! ついに、ついにこの時がきた! 肉体という器を脱ぎ捨て、真なる獣の高みへと至ったのだ!!」


 神官長は興奮した様子で叫ぶと、結界の中に囚われたままの光の獣に歩み寄った。


「ねえ、セグヌンティリエ様! 私は、僕は、やりました! 美しいでしょう!! これで漸く貴女の時代が来るんだ!!」


 神官長は子供のようにはしゃぎ、結界越しに光の獣に顔を近付ける。獣は暫く、ただ陽炎かげろうが立ち上るかの如くその場に佇んでいた。


 しかし、その沈黙はややあって唐突に破られる。



 ギュオオァァァアアアアアアア!!!!!



「伏せろ!!!」



 空気を引き裂くような獣の咆哮と誰かの声が辺りに響いた次の瞬間。


 ――太陽が墜ちた。


 その場にいた全員がそう見紛うほどの巨大な閃光と灼熱が辺りを塗り潰し、飲み込んだ。

 直視できない圧倒的な光と熱が弾ける。肌をちりちりと灼く音がして、焦げ臭い匂いが充満する。それまで後方で何人かの神官と共に全てを見守っていたテオドールは、何者かの言葉に咄嗟にしゃがみ込み頭を庇っていた。恐る恐る目を開けると、彼とその周囲を庇うように、一匹の黒い狼が立っている。

 それは、“手綱”を通じてゆりの異変に気付き、黒狼騎士団を率いて駆けつけたアラスターの姿。

 そしてその正面に広がる光景は――



 正しく地獄絵図だった。



 木々は燃え尽きて灰塵となり、緑の生い茂っていた一帯は赤土の焦土と化した。湖は一瞬で蒸発し、モルリッツの街を覆う雲となった。巨大なクレーターと成り果てた湖の周囲には霧のような湯気が立ち上り、立ち込める低い雲へと吸い込まれてゆく。

 黒狼アラスターの周囲だけが半円を描くように緑を残しており、何らかの力で庇われたのだと理解したテオドールは思わず身体を震わせた。



『コロス』



 まるでこの世の全てを否定するかのような、恐ろしい響きが風に乗って広がった。

 荒れ果てた大地の真ん中に、光の身体を揺らめかす獣のナオトが佇んでいる。既に彼を捕らえていた筈の結界は跡形なく崩壊した。そしてその結界の間近にいたはずの神官長と幾人かの神官は、地獄の閃光の直撃を受け――影すら遺さぬまま、蒸散して消えていた。



『コロス』



 光の獣ナオトが一歩、進み出る。かおのない四つ足の光は、テオドール達を見ているように見えた。

 その全身からは只ならぬ殺気が放たれ、あらゆるものを恐怖でその場に縫い付ける。びりびりと痛いほどの威圧を肌に感じながら、黒い狼アラスターは荒れ果てた大地に躍り出るとナオトの前に立ち塞がった。



『止まれ!』

『コロス』

『衝動に、呑まれるな』


 ぴくり。

 一瞬、光が揺らいだ。だが、ナオトの地を震わせる激しい殺意と破壊の波は止まることなく――決壊して溢れ出した。


『コロス……コロスコロスコロスコロス!!!!』


 刹那、光の獣は黒狼に襲いかかった。



「この場にいる者を全員捕縛しろ! 一人も逃がすな!」



 獣同士が衝突し、閃光が弾ける。突如目の前で始まった神話級の戦いに、暫く誰もが時を止めていた。だが、アラスターから指揮を任されたレインウェルが号令を響かせると、と周囲から「応!」という勇ましい声が聞こえ、彼の伴っていた黒狼騎士団の団員は一斉に動き出した。



 ギャァァァアアア!!!


 光の獣が空気を震わせる。周囲に小さな光球がいくつも生まれ、黒狼に襲い掛かった。


 グルォォォォオオオオン!!!!


 同時に黒狼アラスターも咆哮を上げる。するとその唸りが光る風を生み、壁となって光球を相殺した。

 光球が爆ぜた瞬間、その閃光の中から光の獣が現れアラスターを引き倒した。黒い身体が地に臥せるとそれを食い千切ろうと光が迫る。寸でのところで転がってかわすと、逆に黒狼が光る後ろ頚に噛みついた。


『止まれ! 彼女の! ゆりの願いを思い出せ!!』


 黒狼アラスターは必死に光の獣ナオトに語りかける。しかし既に肉体を光に変え、理性を怒りに燃やした男にその声は届かなかった。

 幾度かの壮絶な力のぶつかり合いの末、光の獣ナオトは全身で乱暴に黒狼アラスターを振り払うと、その身体を力任せに引き裂いた。


 グルァァァアアア!!!!


 血飛沫が舞い、黒狼が痛みに叫ぶ。

 一縷の望みに賭けなんとか相手を押し留めようとする者と、圧倒的な力で本能のまま相手を屠らんとする者。両者が正面からぶつかれば、その力に差が出るのは自明だった。

 横腹を裂かれたアラスターは地面に打ち付けられ転がった。鋼の精神で何とか前肢を地に立てるものの、既に大量の血が流れ出し満足に動くことは叶わない。


 ゆらり。

 光の獣が一歩、アラスターに近付く。ほとんど概念だけになったその存在にかおはなく、彼が何を思っているのか推し量ることはできなかった。


『ここまで、なのか……?』


 アラスターは天を仰いだ。垂れ込めた低い雲は辺りの星を覆い隠し、暗澹あんたんたる鈍色が広がっている。思わず目を瞑ると、瞼の裏にゆりの顔が浮かんだ気がした。



 ぽつり。


 ぽつり。



 ふと、アラスターの顔を一粒の水滴が湿らせる。蒸発した湖の水が作り上げた分厚い雲。それが粒となって落ち、ナオトを、アラスターを、濡らし始めたのだ。


 ぽつり。

 ぽつり。

 ざぁああああ―――――………。



 滴は次第に増え、やがて、雨となった。

 湖と、モルリッツの街を優しい雨が覆う。

 アラスターが無言でその雨に打たれていると、彼の横たわる地面、草木の絶えた赤土に、むくり、とひとつの小さな草の芽が顔を出した。驚いたアラスターが顔を持ち上げる。雨が土を潤し、色を濃くしたその場所に、燃やし尽くされたはずの緑が芽吹くのが見えた。いくつも。いくつも。

 そしてアラスターの横腹の傷が淡く輝き、徐々に塞がり始めた。


『これ、は――?』


 アラスターが立ち上がる。すると降りしきる雨の中、すぐ近く、しかし捕えることはできないほど遠くで、優しい声が聞こえた。



 “――ナオト、泣かないで。

 あなたにいつも笑っていてほしいの。

 何処にいても、あなたを想ってる。

 私の勇者。私の太陽。”



『……ゆり……!』


 ゆりが沈み、その想いと命が泡となり溶け出した湖の水。それが強力な癒しの雨となり、静かに一帯を包んでいた。



 ギュァァァァアアアアアアア…………



 その哀しげな咆哮に、暫し呆然としていたアラスターがハッとして隣を見る。

 肉体を光に変えたはずの獣はいつの間にか剥き出しだった戦意を喪失させ動かなくなっていた。光の身体は雨を浴び、徐々に溶け出すように小さくなってゆく。そしてみるみるうちにその輝きを失い、収縮して――ただの男になり、その場に倒れた。


「……!」


 いつも通りの赤銅色の髪を濡らして顔に貼り付けたまま、ナオトは仰向けに倒れていた。まるでずっとそこで眠っていたかのように、汚れひとつない美しい顔。しかしその右肩には未だ呪いの印がうっすらと刻まれている。

 それを目視したアラスターは自らの意思で人型に戻ると、顔に滴る雨を払うこともせずふらふらと立ち上がった。既に彼が横腹に受けた傷は跡形もなく消えている。

 アラスターは力無く俯いたまま、眠るナオトに近付いた。そしてゆりから預かっていた神霊薬エリクサーを取り出すと、瓶ごとその口に押し込む。意識のないナオトが咳き込みながらそれを飲み込むと、その身体は淡い光に包まれ……呪印は、輝きと共に消え去った。

 ゆりの悲願は果たされたのだ。



 託された使命を果たしたアラスターはその場に崩れ落ちると――そのまま雨に打たれ、地に伏して泣いた。




 その夜、モルリッツの街に降り注いだ短い雨は街の木々に季節狂いの花を咲かせた。その雨に打たれた人は皆一様に、幸せな温もりに包まれ、だがどこか寂しい気持ちになったという。中には負った傷が消えただの、腰の痛みが治っただのと言い出す者もいたが真偽の程は定かではない。この不思議な出来事は後に、「女神の涙雨」として長く街に伝えられることとなる。

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