第九十三話 最後の試練

 モルリッツ支部神殿の地下、魔法無効化マジックキャンセラの陣の上に広がる牢獄。ナオトはその牢屋のひとつで、粗末なベッドに身を投げ出していた。

 不死の王アンデッドキングの接吻。ナオトの右肩に刻まれたその呪いは日に日にナオトの命を蝕み、既に“聖域”の外で日常生活を送るのは困難なほど進行していた。


「ハァ。オレもこれまでかなー……」


 あっけらかんとした調子で、しかし珍しく弱音を零していると、何者かがどたばたと地下階段を駆け下りてくる音がする。


「ナオト様!」

「あ?」


 やって来たのは、如何にも気弱そうな線の細い青年神官。青年はおどおどした様子でナオトのいる牢の中へ入ってきた。


「あ、あの、私、シモンと申しまして……。勇者様にお声をかけさせていただくのは……その、初めてなんですが。ええと、いつも御姿を」

「御託はいーから。用件を言え」


 そののんびりとした喋りにナオトがイラついた様子で先を促すが、シモンという青年はそれをまったく介しない風にマイペースに話し続けた。


「は、はい。神官長から伝言を預かっておりまして……。い、いやなんで私になのか、私にもわからないんですが、あの」

「早く言え」

「あ、え、はい。『貴方に、真の高みに至るための最後の試練を与える』……と、言うことだそうです。で、でも何か、変ですよねこれ」

「は?」


 確かに変だ。あの神官長がわざわざ人を介して重要そうなことを伝えてくるなんて。しかもこんなボンクラに。あの男は、目の前でネチネチと相手の様子を観察するのが好きなはずだ。


「だ、だって、うん。変です。……だって試練とは、お与え下さるものでしょう。こ、これじゃまるで、神官長が神そのもの、みたいじゃないですか。ねえ」

「……!」


 シモンの言葉に、ナオトは目を見開いた。


「――おい、場所は!? 時間の指定はあるのか? 何処へ来いっつったんだ!」


 慌てて起き上がり神官のローブを掴んで揺すると、シモンはわわわわ、と場に不似合いな情けない声を出した。


「ききき北の、街の北の、湖、とだけ。神官長も先程出掛けて行かれまして、それ以上詳しいことはちょっと……。ん、あれ? こ、こんな時間に……神官長は、どこへお出かけになったんでしょうね???」

「!」


 既に日は沈み、時計塔の鐘は半刻程前に鳴り終えている。


 ――何かとても嫌な予感がする。


 罠だとはわかりきっているが、無視するのは得策ではない気がした。

 ナオトはぎしりと安物のベッドを大きくたゆませて立ち上がると、物凄い早さで牢獄を走り抜け、地下階段を上り地上へ出た。


 ずきん。ずきん。

 “聖域”から離れた途端、右肩の呪印が赤黒く光り出し、明滅を始めた。その度に、心臓を鷲掴みされるような激痛が走り抜ける。


「く、そ……神官長の野郎……! ぜってー、ボコす……!」」


 ナオトは胸元をぐしゃりと押さえ付けたまま、一路北の湖へ向かって走り出した。






 胸を潰す痛みに耐え、ひたすら夜の闇を走り抜ける。湖畔に近付くと、いくつかの松明の灯りが周囲を照らしていた。まばらに人影があり、走りながら目を凝らしたナオトは思わず目を見開く。


「ゆり……?」


 そこには、ゆりがいた。

 ゆりは前後を神官に固められ、古い小屋から湖面に伸びる桟橋の上に立っている。湖へ向けられた表情はナオトからは見えないが、しかしその姿は。



 ゆりの右足首には太い鎖のついた足枷が嵌まっていてた。その鎖の先には巨大な鉄球の重りが付いており、ゆりはその重りを――自ら抱えさせられていた。



「ようこそナオト様」


 その手前で、神官長がナオトを迎え入れるように両手を広げた。ゆりは後方の桟橋の先で細い腕を震わせながら、必死に冷たい重りを抱き止めている。その脚が恐怖に竦むのに合わせて、太い鎖がじゃらりと硬質な音を立てた。



「っお前ら、何を、……っぐっ……!」


 ずきん。ずきん。

 駆け寄って蹴散らそうとしたナオトは、呪いの痛みに直接心臓を鷲掴まれ、一瞬その場に立ち止まった。


「今です!」

「!?」



 シャラララララララララララララ……



 神官長の掛け声に呼応するかのように一斉に鈴のような音が木霊して、次の瞬間――ナオトの周囲で巨大な光の柱が立ち上った。


「がッ、あ……!!」


 それは、周辺一体を覆うかというほどの巨大な魔法陣の光。媒介となる魔道具を数百ヶ所の地面に埋め込んで地中に紋様を描き、十人以上の高位の神官が一斉に解き放つ、上級結界と反魔法アンチマジックの複合陣だった。


 ナオトは光の柱の中に囚われる。巨大な光の柱は周囲に輝く壁を作り出し、円陣内を物理的に遮断した。


「クソッ!! お前ら、ゆりに触んな!!!!」


 呪いに冒された身体でなければ、容易に抉じ開けられたはずの浄化術の結界。ナオトは閉じ込められた光の壁を神剣で切り裂こうとして――心臓を貫く痛みに、思わず胸を押さえた。


「ぁがッ!?」


 ずきん。ずきん。

 ナオトの体内の魔力は反魔法アンチマジックにより吸い出され結界に還元される。空っぽになった身体で呪印は一層禍々しく明滅した。


「ナオト様」


 神官長が魔法陣の近くへ一歩、進み出た。


「私はずっとわからなかった。何故貴方が、これ程強力な死の呪いに、呑まれることなく抗い続けることができたのか。そしてその原因がゆりさんだとわかった時、ただ遠ざければ良いのだと思いました。……でも、違った」


 神官長はやれやれ、とばかりに嘆息する。


「貴方はいつの間にか、強い心を身に付けておられた。しかしそれでは困るのです。我々の目的は貴方の死ではなく、貴方をとすること。ですから我々は――貴方の心を壊し、絶望していただかなくてはならない。この意味が、おわかりですね?」


 神官長がにやりと口の端を吊り上げ、右手を上げる。すると桟橋に立っていたゆりは、後ろに立つ神官に小舟に乗り込むよう背中を押された。巨大な鉄球を抱えさせられたゆりが嫌々と抵抗すると、全てを見渡すように後方の木陰に立っていたテオドールから“力ある言葉”が投げ掛けられる。


「――『進めアヴァン』」


 ゆりは諦めたような顔で、自ら頼りない木製の小舟に足を差し入れた。


「ッぐぅ、やめろ! ふざけんな!!」


 ナオトは神剣で結界を抉じ開けようとする。


「ゆり!!!!」


 ナオトがゆりの名を叫んだ。すると前方に虚ろな視線を落としていたゆりがハッとしたように顔を上げ、ナオトの方へ振り返った。


「ゆり! ゆり!!」


 ナオトは神剣を光の壁に突き立て、持てる力を注ぎ込みながら叫ぶ。その必死の形相と、ゆりの視線が交差した。すると、顔を恐怖に引きつらせ、強張らせていたはずのゆりは……。

 ふわりとその表情を弛緩させると、穏やかな顔で微笑んだ。



 “――大丈夫。”



 ゆりの口が、そう動いた気がした。


「ゆり!? ……止めろ! 行くな!!」


 ゆりを乗せた小舟が漕がれ、桟橋を離れた。粗末な小舟は水面を揺らし、湖の奥へ奥へと静かに進んで行く。


「おい!! てめえっ! テオドール!! ッがっは……!」


 呪印の脈動に心臓が悲鳴を上げ、ナオトは思わず神剣を落とし膝を付いた。

 小舟は遥か前方、湖面に落ちた月を割るように進み――やがてその中心で停まった。


「やめろ……やめてくれ……!」


 ぜえぜえと肩で荒い息を繰り返すナオトの懇願の声は、僅かに震えていた。

 神官長はその様子に、満足げに微笑む。


「ナオト様――しっかりと、目に焼き付けて下さいね」


 闇夜に冷たく響くその言葉に、神官長の後方に控えていた神官が手に持つ松明を高く掲げた。


「ゆり……ゆり! やめろおおおおおおおおおおお!!!!」


 ナオトは絶叫と共に光の壁を拳で打ち付ける。何度も、何度も、何度も、何度も。



 そしてゆりは――――



 小舟の上で背を押され、ついに重りを湖に取り落とした。そしてそのままとぷん、と小さな飛沫だけを残して、冷たい湖へ落ち、消えた。




 ごぼごぼごぼごぼごぼ


 ゆりは鉄球の重みで暗く深い湖の底へと沈む。

 死へ引き摺り込もうとする鉄の足枷を何とか外そうともがいたが、焦れば焦るほど肺から酸素が失われ、指の先が痺れてゆく。夜の水の中はほんの少し先すら見えず、必死に足掻くその姿を嘲笑うようにただ、重たく揺れた。

 もうほとんど全身が痺れ、動かない。最後に愛しい人の名を呼んだ声はごぼり、と泡になり、口から漏れて上方へ昇っていった。それを追いかけるように、暗闇を恐れる本能が僅かに腕を伸ばす。泡沫は天井で揺れる月の光に吸い込まれて消えた。最早それは遥か遠く、届くことは叶わない。

 足下には音のない深淵がおりのように溜まり、その口を開けている。ゆりは今まさに降りかからんとする死への恐怖よりもただ、遺される者の嘆きを憂い、消えゆく意識の中願った。



 ――ナオト、泣かないで。

 あなたにいつも笑っていてほしいの。

 何処にいても、あなたを想ってる。

 私の勇者。私の太陽。



 ゆりの想いが、ゆりの命が、泡になり水に溶けてゆく。やがて彼女の意識はそのまま群青の闇に呑まれ、絶えた。



 湖底に揺蕩たゆたうその細い手を掴むのは、死の使いか、それとも。

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