第七十七話 ここが、私の家
大聖堂での事件の翌日。
ゆりの部屋は、芳しい花の香りに満たされていた。早朝、花屋が神殿を訪れゆりの元へ贈り物を届けていったからである。
それは、青い薔薇の花束。贈り主は――アラスター・ウォレム・アーチボルト。添えられたメッセージカードには、アラスターの流麗な文字でこう書かれていた。
“最も美しいひとへ”
昨日、アラスターがゆりの唇を自由にしたのは、ゆりが完全に全身の力が抜けてべしゃりとアラスターの胸に崩れ落ちた後だった。
ほとんどの神官達はシャンデリアの後始末などに追われており、アラスターの腕の怪我がいつの間にか癒えていることに気付いた者はいなかった。ゆりとアラスターは世間では恋仲と見られているため、皆、燃え上がる二人に水を差す無粋者になりたくなかったのだろう。明らかに遠巻きにされていた。
ただひとり、祭壇の横から議長に気まずそうに「大丈夫か……?」と声をかけられた時、多少は覚悟して自分から口付けたものの――まさか人前でこれ程長時間、濃厚なキスを見せつけることになるとまでは想定していなかったゆりは、この状況をどう収拾したらいいのかわからず羞恥のあまりその場から逃げ出してしまったのだった。
もちろんこんな調子でナオトの様子を見に行くこともできず、その日は頭から布団を被ったまま眠れぬ夜を過ごしたというのが顛末である。
ゆりは中庭の井戸で水を汲み、冷えた水にその美しい薔薇を浸して水揚げした。
ゆりのいた世界では自然には存在しなかった真っ青な薔薇。それは夜会の日にゆりが身につけたドレスの色で、そして昨日――ゆりとアラスターを見下ろしていた、大聖堂のステンドグラスの色だった。
「痛っ」
記憶の反芻に意識を取られていたゆりは、薔薇の刺に触れてしまい反射的に手を振り上げる。水に晒した冷たい指がほんの少しだけ熱を持ち、ちくりと痛んだ。すると同時にゆりの心にも鈍い痛みが走り、胸を締め付けたのだった。
薔薇の花を抱えたゆりが自室へ戻り扉を開けると、誰もいないはずの部屋の中に白い影が浮かび上がったのでゆりは心臓が止まりそうになった。
慌てて扉を閉め、呼吸を整えてから再びそっと開けると……部屋の中央に、エメが立っていた。彼は無言で、文机の上に置かれているアラスターのメッセージカードを眺めている。
「エメ!? ひとの部屋に勝手に入っちゃダメでしょ?」
ゆりが慌てて薔薇を窓際の硝子の花瓶に移すと、エメは緩慢な動作でのそりとゆりの後ろに立った。
「何か、私に用事があったの?」
「……顔を、見に」
「えっ?」
エメが今まで聞いたこともないような訪問理由を呟いたのでゆりが驚いて振り返ると、エメはゆりの後頭部に腕を伸ばし、しゃらりと揺れる「自由の鎖」に触れ、指を絡めた。
「ユリ、オレはしばらく、
「何処へ行くの?」
「……トゥ=タトゥ」
「何をしに?」
「そこまでは、アンタが知る必要、ない」
女神教の総本山である東の大国トゥ=タトゥ聖教国。ゆりはもちろん足を踏み入れたことなどないのだが、本来であれば大教導の直属であるエメはトゥ=タトゥの人間だ。
「そうなんだ……寂しいな。どのくらいかかるの?」
「長くても、一月」
「そっか……。気を付けてね」
ゆりが気遣いの言葉をかけると、エメはムッとしたようにゆりを見下ろした。
「それはこっちの、台詞。ユリ、決して、勝手な真似を、するなよ」
「うん」
「もし、オレがいない間、問題があれば――。アーチボルト卿を、頼れ」
「えっ?」
エメの口から出た意外な人物の名に、ゆりは驚いた。この間は「
「いいな?」
「うん……」
告白のこと、昨日の大聖堂でのキスのことがあるので今は少し会いづらいんだけどな、とゆりは思った。
するとエメはそんなゆりの思考を読んだかのようにフンと鼻を鳴らす。
「あれだけ、見せつけていたんだ。嫌では、ないよな?」
「ぐっ……、うん……」
「…………。人前で他人の傷を治すのは、やめろ。今後絶対に、するな」
「ごめんなさい」
あの場にはエメもいた。ゆりは聖なる祭壇で艷事めいた行為を働いてしまったことを咎められているのだと思い、真っ赤になりながら謝罪した。
エメの本当に言いたかったことは、そうではなかったけれど。
暫く恥ずかしさから俯いていたゆりは、エメが自分の後頭部の鎖を撫でる音を聞き、あることを思い出した。
「ところでエメ、これ……。違法な魔道具だって聞いたよ?」
エメが鎖を弄ぶように触れる手に上から重ねるように、ゆりは自分の手を首の後ろにやった。
「誰に、見せた」
「……魔道研究所の専門家……。奴隷に付ける鎖だって言われた」
「家畜も、奴隷も、大した変わらない……だろ?」
「そういう問題じゃ、」
「外して、ほしいの?」
「……できれば……」
なるべく穏便にお願いしようとゆりがちらりとエメを見ると、エメは紫の瞳を爛々と輝かせながら、ゆりの首輪を指でなぞった。
「そうか。外しても、いい。――オレのものに、なるなら」
「……え?」
「オレのものになって、何処にも行かないと、誓うなら」
――だがその場合、本物の鎖で繋ぐがな。
エメはそんな物騒極まりないないことを思ったのだが、もちろん口には出さなかった。
「それは、できないよ……」
「何故?」
「だって……」
ゆりが目を逸らすと、エメの顔がぐい、と近づく。
「……私は……私のものだもの」
ゆりは彼の反応が恐ろしくて、自分の本当の気持ちを言葉にすることができなかった。
「そうか。なら、諦めろ」
「うう……」
「……ユリ」
「うん?」
「
「えっ!? ……うん、まあ、それなりに……」
ナオトに噛み付かれた胸元の無数の傷。
一昨日ユークレースに見られて引かれたばかりだが、それでも日数が過ぎ、大分その痕は薄らいでいた。
「本当?」
エメはゆりの両腕ごと腰を抱くと、もう一方の手で背中を撫でる。ゆりがくすぐったさに身を捩ろうとすると、エメはゆりの白いブラウスの上から乱雑に膨らみを掴んだ。
「!? ちょ、エメっ!?」
慌てて止めようとするが、後ろ手で両手首を押さえられてしまってびくともしない。
「傷治った、なら、もう痛くない、な? 診てやる。もしも声、出したら……直接薬を塗るから、な」
「……!」
「……ここは?」
「いた、く、ない」
「なら、ここは」
「……、ぅ」
「なんだ?痛い、か?」
「いたく……ぅ、な、……」
触れられた箇所から痛みともつかぬ熱が生まれ、頭がじんわりと痺れる。ゆりは嫌々と頭を振った。
「えめ、やめ……やめて」
与えられる未知の感覚にゆりが泣きながら赦しを乞うと、エメはゆりの顎を掴み頬を流れる涙を舐め取った。
「ただの触診、だぞ? 泣くほど、良いの」
「ちがっ、エメ……も、やめて」
「ユリ。アンタは勘違い、してる」
ゆりの耳元で、エメは心凍らせる声音で囁いた。
「与えられる快楽に溺れて、それが『好意』なんだと、錯覚してる」
「ちがう……。私はナオトが……ナオトのことが、」
「まやかし、だ。
「ちがう、そんなことない、どうして」
まるで催眠術のようだ、と頭の片隅でゆりは思った。与えられる熱と裏腹の冷たい声が心の隙間にするりと入り込み、思考を支配されそうになる。
「ユリ、言ったよ、な?
「そうだよ。ここが、私の家」
「なら、女神の御許で不埒な真似はしない……と。オレの帰りを、大人しく待つと、今、ここで誓え」
「不埒な真似なんてしない……しないよ。ごめんなさい。ちゃんと、待ってるから。エメ、女神様、許して……」
自分がモルリッツを離れる間、あの男に全てを奪われないように。エメは理性という鎖でゆりを縛ることで、嫉妬に塗り潰されそうな自身の心を鎮めようとした。
ゆりが羞恥でしゃくりあげると、エメはそれまでの尋問めいた態度が嘘のようにゆりを優しく抱き締め、その黒髪に顔を埋めた。
「アンタの帰る場所が、此処なら――。オレの帰る場所も、此処だ」
エメの視界の端で、風もないのに青い薔薇がそよいだ。
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