第六十六話 あんた何様?
ここは
その閉架のうち、
そしてその禁書庫で独り、黙々と古文書の文字をなぞるのは、他ならぬゆりである。
ゆりは教導の推薦により、この禁書庫の立入許可証を手に入れていた。
本来であれば、評議会へ推薦状を提出し、議会の承認を得る必要があるのだが――教導は推薦状の代わりに、“エイブからダナンへ”と書かれた封筒をゆりへ渡していた。
手続きのことなど何も知らないゆりがその封筒をそのまま図書館の受付へ持って行くと、なんやかんやのすったもんだの末、その場で禁書庫の閲覧許可が出たのである。
ゆりは知るべくもなかったが、実はダナンというのはこの旧王立図書館の館長で、モルリッツ支部神殿の教導――エイブラハムとは旧知の間柄であった。
図書館の地下に存在する禁書庫は、昼間でも薄暗く僅かに黴臭い。普段はほとんど人の出入りがないため、許可証を持つ者がやって来た時だけ司書が入り口近くの作業机の周囲に明かりを点ける。
ゆりは
「はあ。やっぱり、私にはまだ難しいな……」
ナオトの呪いを解く方法を探すため。
ゆりはこの一週間朝から晩まで――孤児院の仕事がある日はその後に――この禁書庫に籠りきりであった。
この世界にやって来てからの努力の成果で、活字を読むだけならほとんど差し支えなくなったゆりだったが、古文書の殆どは手書きによる写本のため文字を拾うのが難しい。更に古代語や専門用語が交じると難易度は跳ね上がった。上階の開架から古代語の辞書を持ち込んではいるが、読み解くにはかなりの時間を要してしまう。
遅々として進まない解読作業。だが一週間禁書庫へ通い詰めた努力の結果、ゆりはあることを確信していた。
それは即ち、ナオトが呪いを受けるきっかけとなった北の村での
調べれば調べるほど、それは偶然では起こり得ないことがわかったからだ。それが教会によるものなのか、はたまた別の第三者によるものなのかまでは判断できなかったけれど。
ナオトに害を為そうとする何者かがいるというゆりの推測は、この時点で確信に変わっていた。
しかし、今のゆりにとって重要なのはそこではない。
「やっぱり、私ひとりの力じゃ限界があるよね……。誰かこういう問題に詳しい人――専門家に話を聞かないといけないな」
ふう、とゆりが書物から視線を外す。目頭を指で摘まんで目の疲れを遣り過ごしていると、ふと、視界の端を黒いものが横切った。
黒いもの。
ゆりがその恐るべき気配に戦慄の目を向けると――。
目が合った。広げられた古文書の上で黒光りする、あの虫と。
「っっぎゃああああーーーーっっっ!!!」
この世界にもその生き物が存在するという恐怖に、ゆりは絶叫する。今すぐ書庫から逃げ出すべく
「ど、どいて下さい! お願いどいて早く!!」
これまで受けた淑女教育の成果は何処へやら、ゆりは泣き叫びながらその人物――背の高さから男のようである――の胸を必死に叩いた。
「は? あんた何様?」
「ぎゃーっっ!! お願い! 出して! どいて!」
黒いローブの男は道を譲るどころか立ち塞がる勢いである。そして、無情にも。
ぶーーーーーーーーん。ぴたっ。
名前を呼んではいけないあの虫は、真っ直ぐこちらへ向かって飛んでくると、あろうことかゆりのロングスカートの裾に張り付いた。
「あ、もう、ダメ…………」
この世の終わりにも似た恐怖に、ゆりはその場で意識を手離した。
どれくらいの時間が経ったのか。
ゆりは頬に触れる冷たい石の感覚で目を覚ました。そこは禁書庫。入り口の扉の前の、石床の上。失神した場所でそのまま、ゆりは床に転がっていた。
「……? はっ! アレは!?」
「殺したけど」
勢い良く身体を起こしたゆりの背後から、高めの
振り返ると、作業机の椅子に長い脚を投げ出したまま座る黒いローブの男がいた。
明るい水色の瞳。夜空のような濃紺の髪には所々明るいメッシュの毛束があり、肩に付いた襟足は金髪だ。そして、首周りにはまるでショールを身につけたかのように派手派手しいグラデーションの羽根が生えている。
陰鬱な禁書庫には明らかに不似合いの、煌びやかな容姿の男だった。
「ころ……? あ、ありがとうございました」
その綺羅綺羅しい
「あれだけ騒ぐから魔蟲なのかと思って殺したら、ただの虫じゃないか。僕の力の使い損だよ。てか、呪術師のくせに虫が嫌いとか終わってない?」
「え?」
一瞬何のことを言われたのかわからなかったゆりだが、男が座る作業机の前に広げられた古文書を見て、自分が何をしていたのか思い出す。
恐らく男は、ゆりが読んでいたその資料から、ゆりが呪術を扱う人間の類いだと勘違いしたのだろう。
「いえ、私は呪術師では……」
「ま、そんなことはどうでもいいんだけど。あんたが入り口の前でぶっ倒れてたから用が終わっても帰れなかったんだ。そろそろどいてくれる?」
「えっ、あ、すみません……」
ゆりはそのまま道を開けようとして、はた、とあることに気が付いた。
「あの、こちらの書庫にいらっしゃるということは魔術とかの方面はお詳しいんでしょうか?」
「は? あんた、僕を知らないの? 呪術師のくせに?」
「だから私は呪術師では……ってそうじゃなくて。お詳しいなら教えていただきたいんですが、この辺りで魔術や呪術の専門家にお話を伺うとしたらどちらが適切でしょうか」
「は? そんなの……」
男は意味ありげにばさりと黒のローブを翻すと、夜空色の髪を掻き上げた。
「魔道研究所をおいて他に何処があると?」
「まどうけんきゅうじょ……」
ゆりが初めて聞いた単語をたどたどしく反芻する。すると男はその反応が気に食わなかったのか、再び不機嫌そうにゆりを睨み付けた。
「もういい? 僕は忙しいんだ。それじゃ」
そう言うと、男は一瞥もくれずにゆりの前から去っていった。
「質問には答えてくれたし、床にほったらかしにされたままではあったけど、目が覚めるまで待っててくれたみたいだし……。いい人……なのかな……?」
独り残された書庫で、ゆりはぼそりと呟いた。
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