第六十三話 知識の扉
久しぶりに礼拝堂のピアノの前に座ったゆりは、愕然とした。
「だめだ、全然動かない……」
手の平をナイフで切り裂き、ナオトに噛まれたゆりの左手。既に跡が残る他は日常生活には何ら支障ないレベルまで回復していた。そこでそろそろと思いリハビリも兼ねてピアノを弾いてみたのだが、内容は散々なものだった。
和音を押さえるくらいなら問題ない。それでも長く指の力を維持するのは困難だった。更に、速く細かいパッセージを奏でようとすると、脳からの信号が遮断されたかのように指が動かない。これからの練習とリハビリである程度は回復するだろうが、以前と全く同じとはいかないだろうと思われた。
それでも、ゆりに後悔はなかった。
あのやり方が最善だったかはわからない。もっと賢く、スマートに獣となったナオトを癒す方法が他にあったかもしれない。だがゆりにはあの時、それしか思い付かなかった。自分に持てるものを全て差し出した。それでよかったのだ。
「とりあえず、焦らず、簡単な曲から弾いてみよう」
何も複雑な曲を弾くだけがピアノの楽しみではないのだ。ゆりの心には、以前ピアノを弾いていた時にはなかった感情が息づいている。
それは、誰かを好きになるということ。
それだけで、これまでの世界は変わり、ゆりの奏でる音楽には瑞々しい色彩が加えられていた。
「ほっほっほ……。なんとも、優しく豊かな音色ですの」
「おじいちゃん」
いつの間にか、いつもの白髭の老人神官が礼拝堂の長椅子の隅に座り、ウンウンと頷きながらゆりのピアノを聴いている。
「左手のお怪我は如何ですかの」
「全く元通りとはいきませんが、生活には問題なさそうです」
「そうか。やはり、常人に比べると治りが早いですな」
「教導」
「なんじゃ?」
「……やっぱりあなたが、この神殿の教導なんですね」
「ほ……」
ゆりの言葉に、白髭の老人は目をぱちくりさせた。
前々からなんとなくわかってはいたのだ。時折ゆりの元を訪れ、僅かばかりの会話をして去っていくこの老人が、一介の神官ではないだろうことは。
老人は少し気まずそうにふさふさの白い眉の辺りを掻きながら、言葉を紡いだ。
「いやあ、騙すつもりようなつもりはなかったんだがの……。名乗らぬ方が、気安く話ができると思うてな」
「私も薄々わかっていながら敢えて聞きませんでした。おじいちゃんだなんて馴れ馴れしい呼び方をしてごめんなさい」
いやあ、実際爺ですからのお、と教導は自身の豊かな白髭を撫でると快活に笑った。
「敢えて聞かなかったのを今更お尋ねになるとは、何かこの爺に聞きたいことでもおありですかな」
教導の言葉にゆりは無言で頷いた。ピアノの椅子から降りると、長椅子に座る教導の前へ進み出て、床に膝を付く。最上位の者へ対する敬意の礼だった。
「正直に申し上げます、教導。私は現状の教会のなさり様に、不信感を持っています」
「それは、勇者ナオト殿に関してかの?」
「そうです」
「ふむ」
教導は立ち上がると、ぶつぶつと何かを呟き持っていた錫杖を一度、シャンと床に突きつけた。
「防音の結界を貼りました。ここでの発言は全て儂の心の中に留め、如何なる言葉にも罰を与えないと誓いましょう。どうぞ、御心のままにお話し下され……召し人の、ゆり殿」
それまでとは打って代わり、丁寧な言葉遣いの中にも威厳を滲ませた教導に、ゆりはごくりと唾を飲み込んだ。だがこのまま何も言わないわけにはいかない。
「近頃の、勇者の……ナオトに対する討伐要請はあまりに多くありませんか? 今のナオトの体調を考慮しているとは思えない」
「それは耳が痛いお話しですな。ですが今は約十年に一度……女神の護りが綻ぶ周期でしての」
この世界は、女神サーイーの力で守られている。だが、一定の周期でそれが弱まる時期がある。それが今だと言うのだ。
「十年ごとと言うのなら、それまでに対策する時間もあったのでは。何故ナオトが全ての責任を負わなければならないのですか? ナオトが……勇者が現れる前は、どうしていたのですか?」
「……うむ。おっしゃる通り、言葉もない」
教導は頷いた。
「教会の僧兵のほとんどはトゥ=タトゥにその身を置き、大陸の東側の防衛を担っておる。故に――
五年前、ナオトがアルバスの丘で神剣を引き抜いた時、神官達は――或いは全世界の人々は思ったのだ。
“これで暫くは平和に暮らせる、勇者が世界を平和にしてくれる”と。
そこに理由などなかった。ただ、女神教ではそのように教えられているから。女神の力を与えられた勇者が、その力を振るい、世界に平和と安寧をもたらすと。
誰もがそれを当たり前に思い、疑っていなかった。そして勇者自身がそれをどう思うか、考える者はいなかった。
「今、ナオトは呪いの力で弱っています。いつも通りじゃないんです。怪我をしたら痛いし、ひとりで戦えば辛いはずなんです。……誰か。誰でもいいんです。彼の隣で、彼と一緒に、戦ってあげてほしい。彼が休みたいと言ったら、休ませてあげてほしい」
そう言いながら、ゆりは自身の身勝手さに嫌悪感が募った。なんと理不尽な願いなのか、と。
自分だって何の力もなく、ここで待っていることしかできないのに。そして大抵の人はゆりと同じで、何もできないのだ。それを解りながら、自分のことを棚に上げて他の人を怠慢だと憤っている。最低な人間だという自覚があった。
口を引き結び震えるゆりに、教導は白眉に半分埋もれた目を見開いた。
「ゆり殿……。貴女は、勇者殿を……愛しておられるのか」
“愛しているのか。”
好きだと聞かれれば、そうなのだろう。誰かを愛しく思う気持ちも、今ならわかる。
だがこれは、愛なのか。
ゆりは愛とは崇高で、尊いもの、美しいものだと思っていた。だが今の自分の心の内にあるものは、汚くて、澱んでいて、ぐちゃぐちゃだ。
ゆりは教導の問いに答えられず、ただ儚げに微笑んだ。しかし慈愛に満ちたその眼差しは、彼女の想いを何より雄弁に教導に示した。
「……教導。そもそも今の状況は、本当に偶然なんですか?」
しばらく無言で微笑んでいたゆりは、意を決したように教導へ問いかけた。教導の目が僅かに細められるのを、ゆりは見逃さなかった。
「はて、それはどういう意味ですかな」
「村ごと
以前ナオトは、ネコロリソウを大量に嗅がされて廃人にされそうになったことがあった。
つまり、ナオトは何者かに狙われている。目的はわからないが、ナオトを追い込もうとしている者がいる。
全ては偶然で、その発想はただの荒唐無稽かもしれない。だが、それがゆりの推測だった。
「ゆり殿は、我々教会を疑っておられる。儂がなんと言うたところで、納得はされますまい」
「……そうかも、しれません」
素直に疑心を認めるゆりに、教導は小さく頷くと白髭を撫でつけた。
「ゆり殿が、何かに結論を出そうとする時……。何を
ゆりはしばし考え込んだ。
予測をするには、材料が必要だ。そしてその予測を結論に落とし込むには、客観的事実が必要だ。
ゆりは日本での勉強ばかりの毎日で、同年代に比べて遥かに多くの本を読み、多くの思考をした。そのほとんどはこの世界では役に立たないものだったが、少なくとも論理的思考は身に付いていた。
「調べます。書物を読み、信頼できる専門家の話を聞き、事実を集めて……。その上で結論を導きます」
「ほんに……聡いおなごであられる。では、儂がその知識の扉を開くお手伝いを致しましょうぞ。貴女が真実に至る、その
与えられた時間は多くはない。ナオトの身が擦り切れて、ボロボロになってしまう前に。
ゆりはナオトの呪印の解呪方法を見つけ出し、その奥に――ナオトに関わるかもしれない真実を見つけ出そうと心に決めた。
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