第六十話 これが恋

「いらっしゃい、ゆりさん」

「ララミアさん、トゥエッテ卿、お招き下さりありがとうございます」

「やあ、貴女がゆりさんか。ララミアから話は聞いているよ。ゆっくりしていってくれ」

「はい、ありがとうございます」


 初めて会ったララミアの夫のトゥエッテ卿は、細身の柔和な青年だった。とても若く見えるが、ララミアより一回り以上歳上らしい。

 ゆりがにっこり笑って貴族の礼をすると、女性のお喋りの邪魔をするのも悪いから僕は失礼するよ、と言い、ララミアの額にキスをして立ち去った。



 ここはモルリッツの北地区、貴族の屋敷が並ぶ一画にある小さな邸宅――それでもゆりが知る日本の住宅事情からすれば随分大きい――トゥエッテ家だった。

 ゆりは以前よりララミアの招待を受けており、今日ようやくその約束が叶ったのだった。



「天気がいいから中庭へご案内するわ。そこでお茶にしましょう」


 そう言ってゆりを連れ立ったララミアは、何故か今日のゆりに言い知れぬ違和感を覚えた。何かがいつもと違う、と。

 ララミアがその違和感の正体に思いを巡らせていると、ゆりがララミアに謝罪の言葉を口にした。


「なかなかご挨拶に伺えなくて、ごめんなさい」

「いえ……それより、そのお怪我はどうなさったの?」


 ララミアが改めて隣で見たゆりの左手の平には包帯が巻かれていた。

 まだ三角巾が取れたばかりで、ララミアからは見えないが袖の下にはナオトに噛まれた噛み跡もくっきりと残っている。


「えっと……転んじゃって」


 ゆりは屈託ない様子であははと笑う。ララミアはそれが嘘だとわかったが、あえて深く尋ねることはしなかった。


 トゥエッテ邸の中庭は、小さいながらもよく手入れがされた美しい庭園だ。咲き誇る薔薇のアーチを潜った中に白いテーブルセットが設えられており、見知った侍女がティータイムの準備を調えていた。


「ベスさん! ごきげんよう」

「まあ、ゆり様。いらっしゃいませ」


 以前夜会の準備の際にゆりを着飾ってくれた侍女ベスは、ゆりがお土産にと持参した焼き菓子を可愛らしい小花柄の皿に並べている。


「素敵なお庭ですね! 薔薇の、いい香りがする」


 そう言って、近くにある薔薇の一輪に顔を寄せて匂いを吸い込んだゆりを見て――ララミアは最初に抱いた違和感が何であるかがわかった。



「ゆりさん。匂いが……しなくなりましたね?」



 そう。いつもゆりの身体から溢れていた芳しい香りが、今日はしないのだ。ララミアの言葉にゆりは少しはにかんで、はい、と頷いた。


「私の匂いは、どうやら身体の中にある魔力が原因だったみたいなんです。それが最近上手くコントロールできなくなっちゃって、その……。すごく、らしくて。生活に支障が出そうで困ってたら、テオくんがこれをくれたんです」


 ゆりは、自分の首に填められた鈍色の首輪を指さした。

 なんの飾り気もないシンプルなそれは、アクセサリーと呼ぶには少々繊細さに欠けていた。まさに、首輪である。


「これね、『魔力殺し』って言うんですって。テオくんがトゥ=タトゥに頼んでわざわざ用意してくれたみたいなんです」



 ――『魔力殺し』。

 その言葉はララミアも知っていた。その技術はトゥ=タトゥ聖教国のみに伝わるもので、文字通り魔力を弱め封じる特殊な金属である。

 ではそれを何に使うかというと、主に『魔獣車』である。トゥ=タトゥでは、狼魔獣グレーターウルフなどの一部の魔物にこの魔力殺しの枷を着けることで、馬などの上位の家畜として使役している。



 確かにゆりの魔力の香りはララミアからしても甘美なもので、それがコントロールできないほど膨大になるとしたら、由々しき事態であることは想像できた。

 しかし、だからと言って、女性に家畜が嵌める枷を着けさせるなど……。

 どうやら形は多少女性を意識して細身の作りにしてあるようだが、その本質が変わるわけではない。


 ララミアは弟の、想い人に対するあまりに無礼な振る舞いに眉を潜めた。


「ゆりさん、申し訳ありません。テオドールが……」


 ララミアの言わんとしたことを察したのか、ゆりは薔薇から顔を離すと、ぱたぱたと両手を振った。


「あ、あのいえ、私はこれをもらって助かってます。最近熱っぽい症状が続いてたんですが、それもこれを着けてからすっかり落ち着きましたし。匂いがなければ他の人と同じですからね。街を歩くのも不便しなくなりました」


 その言葉は世辞ではなくゆりの本音だった。自分には関知できない体臭のせいで、トラブルに巻き込まれるのは御免である。テオドールが苦心の末に思い付いたであろうこのアイデアを、ゆりは喜んで受け入れていた。

 ナオトは当初非常に不満そうにしていたけれど、どうやら体内から魔力そのものがなくなるわけではなく、外に漏れるのを抑えていてくれるだけらしいとわかってからは文句を言いながらも反発はしなかった。



 ベスの手から小花柄のティーカップに紅茶が注がれ湯気が立つと、ララミアはゆりに席を勧めた。



「ゆりさん、お座りになって。この間の夜会――お聞きしたいことが、山ほどあるのだけど」

「奥様、私もですわ。なんでもゆり様が最高級の殿方を二人も射止められたと小耳に挟んだものですから」


 トゥエッテ家では家人と使用人の距離が近いらしい。ベスが客人との会話に口を挟むような真似をしても、ララミアは咎め立てせず、むしろ同意しているようだった。


「ええ、本当に。でもゆりさんが今ここにいらっしゃるということは、ミストラルの王子の求婚はお受けにならなかったのでしょう?」


 ララミアの言葉に、ゆりは手を付けた紅茶を吹きそうになってしまった。どうやら夜会での出来事はかなり世間に広まってしまっているらしい。

 ララミアは興奮気味に捲し立てた。


「私がゆりさんの立場なら、一も二もなく飛び付いていましたわ! でもそれをなさらなかったってことはつまり、そういうことなのかしら?」

「ど、どういうことです?」


 ゆりがおどおどと尋ねると、ララミアは自分がはしゃいでしまっているのを自覚したのか、一旦息を吐く。そして優雅に紅茶のカップを傾けると、小首を傾げた。


「つまりゆりさんは、アーチボルト様を選んだってことでしょう」

「は……」


 ゆりはどちらかを選んだわけではない。だが、世間では「王子を袖にしたのだからアーチボルト卿を選んだのだろう」という結論に達しているようだった。

 ゆりが言葉を無くして固まっていると、ララミアはうっとりとした様子で続けた。


「もう本当に、社交界ではゆりさんとアーチボルト様のお二人の噂で持ちきりでしてよ。まるで『異界伝説』のようだって」

「ははは……」


 ゆりが乾いた笑いを浮かべると、ベスが合いの手を挟んだ。


「でも奥様。もう一人大事な方を忘れてらっしゃいません? ――勇者様ですよ」

「まあ! 本当ね。それでゆりさん。結局――――どなたなの?」


 ベスの言葉に、ララミアは両手を合わせて同意する。二人はずずい、とゆりに詰め寄った。




 ゆりが二人に根掘り葉掘り聞かれ、どうやらナオトのことを好きになってしまったらしいということまで丸裸にされた頃。


「おかあ、ま~!」


 不意に薔薇のアーチの向こうからあどけない声が聞こえる。声の方を見ると、よちよち歩きの幼児と、それを後ろから見守る侍女……ノーラがアーチを潜り、こちらへやって来た。

 ふくふくのほっぺに小さな兎の耳。栗色の髪に映える緑の瞳はテオドールの幼少期を彷彿とさせる、天使のような子供だった。

 おぼつかない足取りでやって来たその子を、ララミアはまるで聖母のようにふわりと抱き上げる。


「あらあらルルーク。こちらはゆりさんよ。ご挨拶なさい」

「ゆぃ……? ちーわ」


 その愛らしい顔が自分の名前をたどたどしく呼んだ時、ゆりの心はきゅんと掴まれた。


「ララミアさん、ここここれが恋……ですかね?」

「まあ、ルルークったら罪な男だわ、ふふふ」


 ララミアは慈愛に満ちた眼差しでルルークを見つめ、次にゆりを見た。



「ゆりさん。誰かを愛するって、素敵なことよ。素敵な恋をすれば、女性は誰でも美しくなれるわ」



 ――自分とそう歳の変わらないララミアは、愛を知っている。

 誰かを愛し、愛されて、その伝え方を知っている。



 小さな天使を抱き締めるララミアを見て、ゆりは自分の中に芽生えたナオトへの想いが――とても頼りなくて、不完全なもののように思えた。

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