第六十一話 ユリは、きれい
日が傾き始めたばかりの、夕刻の始まり。トゥエッテ家でのひとときを終え、ゆりは一人で帰り道を歩いていた。
“ゆいー、ばいばぁー”
中庭でのお茶の後、トゥエッテ家の一人息子、まだ一歳のルルークと遊び倒したゆりはご満悦である。思い起こしながら大通りを歩くゆりの頬は弛みっぱなしだ。
それにしても。
ゆりは不意に思考を切り替えると、にやけた自分の両頬をピシャリと叩いた。
夜会での一件は既に貴族中に広まっていて、ゆりとアラスターは恋仲と見られているとか。
この世界では根なし草で失うもののないゆりはともかく、名門貴族であるアラスターの……ひいてはアーチボルト家にとんでもない
ゆりがうーんと考え込んでいると、頭上から聞き覚えのある声が降ってきた。
「ニヤニヤしたり、考え込んだり、忙しい、な」
「……エメ?」
ゆりが見上げると、いつの間にか隣にいつも通りの白いローブを着たエメが立っている。
「エメ? なんでここに……」
「こっちの台詞。出かけるって、聞いてない」
「えっ」
出かけるのにいちいちエメの許可が必要とは聞いていない。
普段冷淡とも言えるエメの、珍しく気が立った様子にゆりは困惑した。
「ごめんなさい。でもエメが私の予定を全部把握している必要はないんじゃない?」
「……何かあったら、どうする」
「心配してくれてたの?大丈夫だよ。まだ明るいし……ほら、それに、これもあるから。へんな匂いのせいで知らない獣人に絡まれることもないよ」
ゆりはテオドールから贈られた自分の首元の『魔力殺し』に触れて見せた。するとエメは冷たい表情で眉根を寄せる。
「……家畜の首輪着けて、喜ぶなんて……。とんだ女、だな」
「っ!」
エメは銀色の『魔力殺し』の隙間に人差し指を引っ掛けると、そのまま乱暴に引っ張ってゆりを引き寄せた。
「エメ……っぁ!」
その荒々しい態度に抗議しようとゆりが口を開くと、エメはその左耳に顔を寄せガリ、と噛み付いた。
「……家畜みたいに繋いでおけば……。いなく、ならない?」
耳にかかる熱い吐息から漏れたその言葉は凍えるほど冷たくて。ゆりは思わずぶるりと震えた。
エメには、自分が苛立っている自覚があった。
夜会の日、妖艶な色香を纏い、美しく咲き誇るゆりが求婚されたその日から。
無防備な姿を晒し、エメに『男』という感情を意識させたその日から。
原初の獣に血を与え、ゆりが奇跡を見せたその日から。
或いは、ナオトの呪印を鎮めるために二人が口付けを交わしていると知ったその日から。
これまでエメの心を溶かし温めていたはずのその感情は、いつの間にかその身を焦がす
エメが噛み付いたゆりの耳元で、
噛まれたゆりの耳朶が少し切れ、血が滲んだ。先が二股に分かれた蜥蜴の舌でそれをほんの少し舐めとれば、エメの全身にこれまで感じたこともないような高揚した背徳感が駆け巡る。
――喰らえ。喰らえ。喰らえ。
獣人としての本能がエメの心を覆いかけたその時、エメの頬にゆりの両手が触れた。
「エメ、……エメ」
ゆりはしっかりとエメの頬を両手で包むと、そのまま彼の顔を持ち上げる。そして確かめるようにエメの名を呼ぶと、自分の顔の正面に据えた。
ゆりは泣かなかった。怒りもしなかった。エメの紫の瞳を覗き込み自分を映すと、しばらく神妙に見つめた後――。ただにこりと微笑んだ。
「――良かった。大丈夫。いつものエメの目だ」
ゆりの目が細められ、その笑みが彼を包んだ瞬間。エメの心に張り付いていた濁った膜が、ぱりんと音を立てて割れた。
「エメ、イライラしないで。ごめんね、私がいつも心配ばかりかけているからだよね……。でもほら、大丈夫。私はちゃんとここにいるから。
ねえ、――だから、泣かないで」
いつの間にか、エメの瞳からは一筋の涙が零れ落ちていた。
エメは心の底から理解した。
この女は、聖女なのだ。どうしようもなく、聖女なのだと。
ゆりが起こした奇跡は、ただ持てる魔力が起こした偶然ではない。その清廉な精神が、揺るぎない意志が、ゆりを聖女たらしめたのだと。
ほんの少し舐めただけのゆりの血が、エメの全身を巡り、淀んだ感情を浄化させてゆくのをエメは確かに感じた。
「ユリ……」
エメは恐る恐るゆりの背に手を回すと、白いローブの中に覆い隠すようにその身を抱いた。
力を込めたら壊れてしまうかもしれないと思ったその身体は想像よりも温かく、寄り掛かったエメの体重をしっかり受け止めていた。
「ユリは……。ユリは、きれい」
「ふふ、急にどうしたの? エメだって綺麗だよ。透き通ってて、きらきらしてる」
白いローブの中でゆりはくすぐったそうに笑うと、エメの金の髪先に触れるためその手を伸ばした。
この時、エメは決意した。
ゆりのきれいを守る唯一人の人になろうと。
教会からも、それ以外からも、ゆりを曇らせるものは全て除き、あらゆる穢れからその身を守護する者になると。
日が落ち始めた大通りの真ん中で、二人の影は重なったまま長く伸びていた。
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