if. ナオトの場合
満天の星がきらきらと夜空に輝く。
そしてそんな夜空の下、きらきらの明かりに彩られた豪奢な歌劇場の正面から、きらきらと着飾った人々が続々と現れ、笑顔で帰路につく。
「ふぁあ……、よく寝た」
「もうっ! まさか最前列で寝るなんて……! 本当にデリカシーがないんだから……」
あまりにもあまりなナオトの態度に、ゆりはおかんむりだった。そう。『異界伝説』を観劇しに来たナオトは、上演中爆睡していた。
ナオトは確かに、普段の言動からして芸術の類いに興味があるようには見えない。だが、ゆりがまだこの観劇に誰を誘うか決めあぐねていた時、部屋の机の上に置かれていた二枚のチケットを目敏く見つけ、一緒に行くと騒ぎ出したのはナオト自身だったのだ。
それに、である。
ナオトとゆりが歌劇場の入り口にやってきた時、たまたまそこに居合わせた恰幅の良い劇場の支配人がナオトに気付き、なんと最前列の席を用意してくれたのだ。
「今代の勇者様に勇者の物語をご覧いただけるとは、最高の誉れです。是非、今宵の女神のお連れ様と楽しんで下さい」
連れであるゆりのことを女神サーイーに喩え、ウインクまで送ってきた。
ここまでの特別扱いをしてもらっておきながら、いざ話が始まると、ナオトは神剣を抱きながらうつらうつらと船を漕いでいた。恐らく話の半分も観てはいまい。
ぷりぷりと怒りながら早足で歩くゆりをナオトは楽しそうに追いかける。
「珍しいよね、ゆりがそんなに怒るなんて」
「誰だって怒るよ! せっかくのデー……」
言いかけて、ゆりは固まった。
これは「デート」だったのか? 答えは否である。
自分の用事に、ナオトを付き合わせただけ。ちょっぴり楽しみにしていた自分が馬鹿みたいで、ゆりはそんな自分自身にがっかりした。
「ナオトはどうして今日、着いてきてくれたの? お芝居に興味なんてなかったんでしょ」
「そりゃ、決まってるじゃん。ゆりが他の男と出掛けるのがイヤだったから」
立ち止まったゆりの問いかけにナオトはあっけらかんと答えた。ゆりは思わず眉根を寄せる。
「そんな理由で……」
「そんな理由?」
それまでへらへらと笑っていたナオトの黄金の瞳がすうっと細められた。
「世の中の男がさ、なんで必死になって女を連れ出して、誉めそやして喜ばせて……。ご機嫌とってるか、知ってる?」
「それは……。その人のこともっと知って、仲良くなりたいから」
「そう。よーく知りたいの。隅々まで知って、仲良くしたいわけだ」
「私も、今日ナオトと出掛けたらもっと仲良くなれるかと思ったんだけど」
「……意味わかって言ってる? オレと仲良くしたいの? じゃあ、する?」
全くこちらの言いたいことを理解しないゆりに苛立ったナオトは、ゆりの顔を掴もうと右手を伸ばした。わからず屋には身体に言い聞かせた方が早い。仲良くしてやる、捕まえて食ってやると思ったのだ。
何も知らない憐れな子羊に向けられたその右手を、しかしゆりは自分の顔前で両手でがしっと掴んだ。
「!」
ナオトが面食らって動きを止めると、ゆりは掴んだナオトの右手の平を自分の胸の前で開き、指圧でもするかのようにぷにぷにと揉み始めた。
「私はナオトのこと、もっと知りたいって思ってるよ……。どんな食べ物が好きで、どんな歌が好きなのかとか。どんな風に考えてて、何をするのが好きなのかとか」
そう言って視線を落としながら、懸命にナオトの手の平のツボを押している。ナオトからは俯いたその表情は見えなかったが、黒髪の隙間から覗く耳朶は僅かに赤く染まっていた。
ナオトはそんなゆりの初心な言葉と態度にすっかり毒気を抜かれてしまい、「ナニをするのが好きなんですが」と喉まで出かかった言葉を引っ込めた。ハァ、とひとつため息をつくと、バツが悪そうに空いている左手で頭を掻く。
「……わかった。じゃあゆりにオレのこと……オレの好きな場所をひとつ、教えてあげる。――――よっと」
ナオトはそう言うと、向かい合っているゆりを両手で抱き上げた。そうしてゆりの意思を確認する間もなく、もの凄いスピードで走り出した。
「ちょ、ナ、きゃああああーーーーーーっっ!!!」
悲鳴を上げたゆりは、今が夜だと言うことを思い出してハッと口を押さえた。ナオトは軽々とゆりを抱え大通りを走り抜けると、民家の屋根に飛び乗り、今度はそのまま屋根伝いに街を南に駆け抜け、モルリッツの中央地区と南地区の境にある大きな時計台の下までやって来た。
まさか……と戦慄するゆりの嫌な予感そのままに、ナオトは時計台の壁に片手を掛けると、ひょいひょいとゆりを抱いたまま事も無げによじ登り、あっという間に時計台の先端まで上りきった。そこは間違いなく、王城を除けばこの街で一番高い場所だった。
ナオトは日に三度だけ鳴らされる巨大な鐘のすぐ脇にゆりを下ろそうとした。しかしゆりは足が竦んでとても一人では立てず、必死にナオトにしがみつく。ナオトがほら、と指をさすので、ゆりは恐る恐る頭を持ち上げると、示された方角へ顔を向けた。
二人が立つ時計塔の先端は、果てしなく広く飲み込まれそうなほど深い、暗闇の淵だった。その空には降るほどの星が。そして眼下に広がる街には、小さく灯る明かりが。一握の砂を溢したかのように無数に広がり、輝いていた。それは何処からが天で、何処からが地なのかわからなくなるほど。
ゆりは自分がそこに吸い込まれてしまうのではないかという錯覚に襲われ、暫し時間を忘れた。
「きれいでしょ?」
「……うん。確かにここからの景色は、ナオトにしか見られないね」
ナオトの言葉に、ゆりは頷いた。風が冷たいなと肩を竦めると、ナオトが庇うようにその肩を自らの腕で覆った。
「そ。オレだけのものなの」
「すごくきれい……。でも、なんか」
ゆりはナオトにしがみついた腕に、無意識に力を込めていた。
「……なんか、寂しいね……」
ゆりの何気ない呟きに、ナオトはいつもこの景色を眺める度に感じていた言い様のない胸の内を、ずばり言い当てられたような気がした。
「ん……どこが……?」
どきりと動揺した胸を鎮めながら、なんでもない風にナオトは聞いた。ゆりならば、このいつも自分が感じていたやる方ない感情の正体に答えをくれる気がしたから。
ゆりは身体を預けているナオトの胸に顔を擦り付けると、ぼそりと答えた。
「街にはこんなにたくさん灯りがあるのに、ここにいる自分は、そのどれでもなくて――。自分はこの世界に、たったひとりぼっちなんじゃないかって気がして……。それが、寂しい」
自分の気持ちを言語化されて、形を持たされて。ゆりの言葉はナオトの心にストンと落ちた。
そうか。この感情の正体は、孤独。
そんなもの、とっくに慣れきって何も感じないと思っていたけれど。どうやらオレの心はまだ死んではいなかったらしい、とナオトは自嘲した。
これまであやふやだったその感情を受け入れ、在るべき場所に収める。するとこれまでスカスカの穴だらけだった自分の心が幾分か充たされ、温まる気がした。
「あっでも、」
ナオトが不思議な充実感を噛み締めていると、ゆりが言葉を継いだ。
「今はひとりぼっちじゃなかった。ナオトがいるもんね」
「ん……そだね」
ナオトはいつもの抱きまくらの要領でぎゅう、とゆりを抱き締めると、その首筋に顔を埋めた。
そうして暫く尻尾を揺らしながらゆりの匂いを吸い込むと、その身体を抱いたまま時計台の端に腰を下ろした。
「ね、ゆり、今日の話、面白かった?」
今日の話とは、『異界伝説』のことであろう。ゆりは相変わらず身体が竦んで身動きが取れないので、ナオトに引っ付いたまま丸くなり、小さく頷いた。
「うん。楽しかったよ」
ゆりが答えると、ナオトは嬉しそうに耳を震わせ、額をぐりぐりとゆりの顔に押し付けてきた。
「そっか。オレもあの話、結構すき。――だってあの話は、オレとゆりの話でしょ」
「えっ?」
ゆりが思わず聞き返すと、ナオトはきょとんとした。
「だってオレは勇者で、ゆりは異世界から来た女神サマ。そうでしょ?」
自分を物語の主役に見立てるとは、なんと不遜な男……。ゆりは一瞬そう思ったが、確かにナオトは勇者なので間違いではなかった。しかも物語に登場した神剣すら持っている。
そこまで考えてふと、気が付いた。
「あれ、ナオトが持ってる神剣って……」
「コレの名前、前に教えたよね? ――神剣オスティウス」
「! それって、」
「だから言ってるじゃん。コレは正真正銘、あの話の中に出てきた神剣と同じものなんだってば」
勇者オスティウスの名を冠した神剣。女神に託された愛の形。伝説上のそれを実際に持つ人物が目の前にいるという事実に、ゆりは今更ながら不思議な心持ちがして、目をぱちくりさせた。
「ほらね、だからオレは勇者なの。それでゆりが女神」
「うん、ナオトが勇者なのは知ってるけど、さすがに自分を女神に準えるほど厚かましくはないっていうか……」
「何言ってるの。ゆりは女神。女神様だよ」
「や、やめて……罰当たりすぎて死ぬ……」
そう、ゆりはオレの女神。
女神は獣を人に変え、これまで知らなかった気持ちを教えてくれる。
ナオトは真っ赤になったゆりをもう一度強く抱き締めると、すりすりとその首元に擦り寄り、キスをした。
空では三日月が、その口の端を持ち上げてニイと笑っていた。
――首筋へのキスは、「執着」。
間章 終 (次章へつづく)
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