if. テオドールの場合

 夜の帳が何重にも重ねられた世界の底にありながら、その歌劇場の周囲は明るかった。


「テオくん、面白かったね!」

「はい! すっごく!」


 興奮冷めやらぬテオドールの元気な返答に、ゆりは彼を誘って良かったと心から安堵した。

 年頃の男の子にラブロマンスは気恥ずかしいと思われるかな?という不安があったが、どうやらそれは杞憂だったようだ。


今日のテオドールは“ぼくがバッチリゆりさんをエスコートしますね!”という宣言通り、神官の正装である純白のローブを着込むと完璧に紳士的なエスコートをしてくれた。さすがは貴族、そしてララミアの弟である。

 ゆりの背に添えられた手は貴族の男性らしいスマートさだが、熱っぽく感想を語るその表情はやはりあどけなくて、ゆりは自然と笑みが溢れた。


「ぼくはやはり、教会で教える聖教書の内容との差違が興味深かったです。例えば、聖教書では女神様が絶望の淵に立たされた我々の元にお出でくださったのは『世界の求めに応じて』と記されています。ここが『異界伝説』だと『世を憂うオスティウスの求めに応じて』と改変されているわけです」

「へえ~」

「恐らくこれはオスティウスのキャラクターを描写するにあたり……」

「ねえ、テオくん」


 ゆりはテオドールの顔を見ると、少しはにかみながら微笑んだ。


「テオくんの話、もっとゆっくり聞きたいな……。少し、しない?」

「はっ?」


 そこら辺の男に聞かれたら絶対に勘違いされる殺し文句に、テオドールは一瞬あられもない想像をして……。いやいやいや、と頭から追い出し、ぎこちなく頷き返した。




 ゆりの言い放った台詞にはテオドールが想像したような意図はなく、本当に言葉通りの意味だった。

 神殿から賑やかな街の中央通りへ行き先を変更した二人は、その間もテオドールが『異界伝説』と聖教書の違いを熱弁し、ゆりは興味深げにそれを聞き、時折質問を返したりしていた。


「本当にテオくんはすごいなあ、勉強になるよ」

「……そんな風に真面目に耳を傾けてくれるのは、ゆりさんだけです」

「えっ、でもすごく興味深いと思ったよ。今の話なんて、論文にできそうじゃない? そしたらテオくんの考えをもっとたくさんの人に知ってもらえるよ」

「ぼくの考えを知ってもらう……」



 それは、ごく当たり前の発想。

 だが、テオドールは何故これまで考え付かなかったのだろうと目から鱗が落ちる思いがした。

 これまで彼にとって、知識とは一方的に得るものであった。

 たまにその一端を披露しても、子供らしくないとか小難しいとか果ては気持ちが悪いとか言われるばかりで、テオドールは次第にそれを他人に見せることはなくなった。恐らく彼の幼げな容姿とのギャップも、他人に違和感を与えていたのだろう。


 だが初めて会った時から、ゆりにはそれがなかった。

 テオドールの話に関心を持って耳を傾け、素直に称賛した。与えられた話題を真剣に考え、わからないことは真摯に問い、時には討論してみせた。それはテオドールにとって望外の喜びであった。

 この女性ひとは自分を認め、ひとりの人間として対等に接してくれると。惹かれるのは当たり前だった。

 近頃はゆりに笑顔で話を聞いてさえもらえれば満足だったテオドールに、ゆりはまた新たな可能性を示唆したのだった。



「ゆりさんには敵わないなあ」



 テオドールは微笑んだ。


「ところで、中央通りで何をするんです?」

「お腹空いちゃったから、何か食べたいなあと思って。あの辺りって、休日は夜店が出ているんでしょう? 見てみたいなあと思ってたの」

「ぼくは昼間の出店しか覗いたことがありません」


 ゆりと比べて自分は年齢も経験も不足しているな、とテオドールは埋められない二人の差を思い、悲しくなる。

 そんなテオドールが兎の耳を垂らす様子に、ゆりは困ったように笑った。


「……実は私も、ないの。元の世界でもお祭りとか、ほとんど行ったことがなくて」


 それは意外だった。ゆりはテオドールより七つも歳上で、酒だって飲める。元いた世界には身分制度もなく女性が夜に一人で出歩けるくらい平和だと言っていたので、祭りに気軽に参加しづらいということもなさそうだった。


「私の家ね、母がすごく厳しくて、小さい頃から勉強ばかりさせられてたの。子供らしいことなんてほとんどさせてもらえなくて、結果が出ないと叩かれたり罵られたりしてね……。父は、無関心だったし」


 そのゆりの告白は、テオドールに驚きと同時に納得をもたらした。

 他人に愛情を分け与えることに何の躊躇もないこの女性は、きっと愛に溢れた家庭で育ったのだと思っていた。だが、どうやらそうではなかったらしい。

 一方で、ゆりが覗かせる知性の片鱗はそういった生活の中で培われていったものなのだろうと。


 全てを引っくるめてそれが「ゆり」という人間なのだと理解すると、テオドールの心には不思議な温かさが宿った。



 テオドールはゆりに向かい合うと、その両手を握った。初めて会った頃には少しだけ見上げていた彼女の瞳は、今ではほとんど同じくらいの高さだ。


「ゆりさんと一緒に新しい経験ができるのがうれしいです。ゆりさんも初めてなら、うれしさも二倍だ」


 そう言って笑顔でゆりの手を引くと、テオドールは駆け出した。




 中央通りには所狭しと夜店が並んでいる。軒先で揺れる提燈ランタンの灯りが、一帯を漂う食欲を誘う香りが、店頭に並ぶ珍しい食べ物や小物が。全てが目新しく鮮やかだった。

 二人は店をひとつひとつ覗き込み、目に留まったものを買い求めた。店員に冷やかされ、おまけされ、色々な食べ物を分け合い、行儀が悪いね、と笑いながら食べ、歩いた。



「ふふふ、楽しい」

「そうですね」


 一通り満喫し、中心部の噴水に腰を下ろしたゆりを、テオドールは立ったまま見つめていた。


「ね、これすごくおいしい! テオくんも食べなよ」


 ゆりは砂糖のまぶされた小さな揚げ菓子をひとつ摘まむと、あーん、とテオドールに差し出す。テオドールは戸惑いつつ、差し出されたゆりの手首を持つと、それを口に運んだ。


「おいしい?」

「はい。……甘い、です」


 ゆりが自分の指についた砂糖をぺろりと舐めとるのを見て、テオドールはどきりとした。



「すっかり遅くなっちゃったね。そろそろ帰らないと……」

「いたいた!! 探してたんだよおねーさん!」



 突然、小走りでやってきた何者かがゆりの言葉を遮り、馴れ馴れしく話しかけてきた。

 ゆりとテオドールが顔を上げると、そこには見知らぬ獅子と犀――らしき二人の獣人が立っていた。ああまたか、とゆりは嘆息する。


「さっきから堪らなく美味そうな匂いがすると思ったら、やっぱりおねーさんだった。こっち来て俺達と遊ばねえ? 身体の何処からそんなイイ香りがするのか確かめさせてよ」


 ゆりが外出すると、こうやって獣人に声をかけられることがよくある。大抵はエメが側にいるので、彼が少し睨んだだけで逃げ出してしまうのだが。

 下卑た笑いを浮かべる獣人達に、さてどうしようとゆりが頭を回転させていると、白いローブがゆりと男達の間に立ち塞がった。

 それはいつものエメではなく、神官の正装を纏ったテオドール。


「申し訳ないんですが、ぼくの彼女との会瀬を邪魔しないでもらえますか?」

「は? ガキが……しかも坊主かよ。何言ってんだ? 邪魔なのはてめぇだろうが」

「いえ、ですからぼく達は恋人同士ですので、あなた方が立ち入る隙はありません。女神に将来を誓った間柄です」


 そう言ってゆりの方を見ると優しく微笑み、手を取った。


「いやお前どう見ても弟」「違います!」


 ゆりは真っ赤になりながら、テオドールの手を握り返し叫んだ。


「か、彼は私の恋人です。とっても優しくて、かっこよくて……そう、将来を誓った仲です!」


 獣人達がぽかんとしていると、テオドールは勝ち誇った顔でそれを一瞥し、再びゆりを見た。


「そう。よく言えましたね、ゆり。ぼくの可愛い女神」


 そう言ってテオドールは握った手とは反対の手でゆりの前髪を梳くと、そっと瞼の上にキスをした。

 その表情の甘いこと。

 見せつけられた獣人達はつっかかる気も失せ、そのまますごすごと退散していった。



「ゆり、帰りましょう」


 テオドールは座っていたゆりを引っ張りあげると、その手を握ったまま歩き出した。


「テオくん、ありがとう。かっこよくてドキドキしちゃった!」

「ちゃんと恋人に見えたみたいで良かったです」

「ふふっ、あの人達ぽかんとしてたねえ!余程私達が仲良さそうに見えたのかな?」


 ゆりは思い出し笑いを噛み殺し、頬を弛めた。二人は手を繋いだまま、神殿へ向かう通りを東へ歩いていた。夜店が途切れると辺りは次第に静かになり、通り沿いの店から漏れる僅かな灯りが行く先を示している。


「帰り道、また獣人に声をかけられるかもしれません。だから神殿に着くまでは、ぼくとゆりは恋人ですよ」

「うん、わかった。テオくん、迷惑かけてごめんね」

「テオ、です」

「……テオ」

「なんですか? 可愛いぼくのゆり」


 振り返った若草色の瞳が色っぽく細められたで、ゆりは内心どきりとしつつ、この人は将来大層モテるに違いないと唸った。

 空では三日月が、その口の端を持ち上げてニイと笑っていた。



――瞼へのキスは、「憧れ」。

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