第三十四話 明日も聴かせて

 ゆりは最近少し忙しい。

 週三、四日程の孤児院での勤務に加え、日々の神殿の清掃も欠かさない。この世界に関する勉強も続けているし、目前に迫った社交パーティーのため、急遽付け焼き刃ながら社交のマナーも学ぶことになった。

 ナオトやアラスターは暇を見つけては訪問してくるし、この間はなんとドーミオがゆりを訪ねてきた。久しぶりの再会に驚いたが、同時にとても嬉しかった。


 社交マナーの講師は、テオドールのお姉さんにお願いすることにした。

 当初は「下級貴族なのでとても人様にお教えできるような立場ではございません」と固辞されたが、そこは三顧の礼でもって迎えることとなった。

 全く知らない人よりいくらか気安いし、良いドレスショップも紹介してくれたし、何よりあの賢くて教え上手のテオドールのお姉さんなのだから……と、ゆりには既に全幅の信頼感があった。



「ララミア・トゥエッテと申します。ゆり様、お初にお目にかかります」



 そう言ってにこりと微笑んで貴族女性の礼を見せたテオドールの姉・ララミアは、間違いなく淑女の中の淑女だった。


 テオドールと同じ兎耳に、亜麻色のウェーブがかった豊かな髪。瞳の色はテオドールよりやや濃い新緑の色だ。

 背はどちらかというと小柄なゆりより更に低くどう見ても少女にしか見えないその女性は、聞けば二十一歳にして既に結婚しており、一児の母だそうだ。何でもお相手は人間の男性で、相手のひとめぼれだとか。


 こんな幼気な女性にひとめぼれって――


 ゆりはララミア女史の夫の嗜好を察した。






「はあ。疲れたなあ」


 ゆりはゴキゴキと肩を鳴らすと、礼拝堂のピアノに触れた。


 ララミアの今日の授業は座学だった。

 貴族社会での常識――挨拶の順番やタブーとされる話題など。しかしその全てを背筋を伸ばして淑女の佇まいで聴かなければならない、というものである。久しぶりに使った部位の筋肉がぎしぎしと音を立てていた。



「う~ん、こっちも久しぶりだけど……まだ指動くかな」



 おじいちゃん神官に礼拝堂のピアノを使う許可を得てから既に数日。やっとその前に座ることができて、ゆりの心は浮き足立っていた。


 ゆりはピアノが好きだった。

 母に許された数少ない趣味のひとつだったし、普段あまり他人の前で感情表現することのなかったゆりも、ピアノの前では素直になれた。嬉しい時には嬉しい曲を弾き、悲しい時には代わりにピアノが泣いてくれた。

 幼稚園に就職してからも、放課後時間があれば練習がてら様々な曲を弾いていた。


「さて……」


 ポロロン


 ピアノ…というには少々古めかしいその楽器は、弾けば少し硬質な弦の音を立てた。


「うん、いけそう」


 そこからはもう止まらなかった。


 簡単な練習曲エチュードからはじめ、幼稚園で子供によく聞かせていた童謡。ショパンのマズルカから果ては耳コピの日本のヒットチャートまで。歌詞を知るものはノリノリで弾き語りをしてしまう始末である。

 何せ音響が抜群に良い。ピアノの音が礼拝堂全体を包んで、それに自らの歌を乗せれば自然とのびのび美しく聴こえた。



 ――二刻以上弾いていただろうか。



 流石に今日はそろそろ終いにしようとゆりが最後に弾き始めたのは、よく出身校でも歌わされた聖歌だった。

 ゆりはゆったりとした調子でそれを弾き始めると、小さく、だが美しく通る声でその歌を紡いだ。




 主よ 御許に

 歓びの歌を捧げん

 迷いの中 絶望にあっても

 あめつちにも そはありて

 主は許し 主は導く



 主よ 御許に

 歓びの歌を捧げん

 石寝の上 苦難にあっても

 わがうちにも そはありて

 主は与え 主は寄り添う


 主は許し 主は導く




 ――ガタッ


「っ!?」


 背後で物音がしてゆりが慌てて振り返ると、そこには一人の男が立っていた。

 いつからそこにいたのだろう、呆然とした表情で礼拝堂の入り口に立っている。



 ――見られた!! っていうか聴かれた!!!!



 完全に自分の世界にトリップしていた様子を見られたことに気付いたゆりは、羞恥心で頭が爆発しそうになる。



 恥ずかしすぎて死にたい!!



 顔を真っ赤にして涙目で奥の扉から飛び出そうとした時、後ろから声がかかった。



「明日も! ――明日も聴かせて下さい、同じ時間に!」



 ゆりはその言葉を背中に受けたまま、振り返ることなく礼拝堂の奥の廊下に飛び込み姿を消した。


 礼拝堂には、しばし男だけが残されていた。

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