第三十三話 今結んであげる
今日は先方の都合でいつもより少し遅めに、孤児院へ行く日。
ゆりは早朝、礼拝堂の掃除をしていた。孤児院で働き始めてからも、時間がある時はどこかしら掃除をしている。この世界に来てから、雨露をしのぎ、温かい食事ができることのありがたさを知った。半分は自己満足ながら、ゆりなりの教会に対するお礼のつもりだった。
「ほっほっほ。今日も早い時間から感心ですな」
「あっ、おじいちゃん。おはようございます」
ゆりが作り付けの長椅子を一台一台磨いていると、いつもの年配の神官がそこに立っていた。
「お嬢さん、ちょっとこちらへ」
「?」
ゆりが小首を傾げながら近付くと、おじいちゃん神官はゆりに何枚かの銀貨を握らせようとした。
「お駄賃じゃ」
「ええっ? そんな、受け取れせん」
慌てて固辞しつつ、神官なのに随分俗っぽいことするなあ、とゆりが老人を見ると、老人はカラカラと笑いながら自身のサンタクロースのような髭を撫でた。
「そうか……。その労力と謙虚な気持ちに報いたいと思ったんじゃがの」
「ええと、でしたら代わりにその……。お願いがあるのですが」
「ほ? なんじゃ?」
ゆりはちら、と背後を見た。
「あの、ここにある立派な楽器――時々弾かせてもらえないかな、と」
そこには一台の古めかしいピアノが置いてあった。
「ほお。お嬢さん、器楽を嗜むんですかの」
「はい。昔ずっと習っていて、職場でも使ってましたから」
「それはそれは。午前の礼拝の時間以外なら、いつでも自由に使って下さって構いませんよ」
「わあ! ありがとうございます」
おじいちゃん神官はウンウンと満足げに頷くと、老人にしては軽快な足取りで去っていった。
ゆりは心の中でガッツポーズする。
ピアノは、勉強以外は時間の無駄、と断じるゆりの母が唯一高校に入るまで続けることを許した習い事だった。ゆえに思い入れがある。
孤児院に古いオルガンがあるので子供達に何か弾いてあげたいと考えたのだが、如何せんこちらの世界に来てからしばらくピアノに触れていないのでどこかで練習できたらなあと思っているところだった。
――明日から時間を見つけて練習しよう。
そう決めて、ゆりはエメと出掛けるために部屋へ戻っていった。
部屋に戻ると、ゆりはいつもより少しだけ早く準備を終え、窓を開け放った。そうして彼を呼ぶ。
「エメ、いる?」
「ここに、いる」
ゆりがどこへともなく呼び掛けると、ドアの向こうから返事が聞こえた。
「エメ、おはよう」
「……ん」
ゆりはドアを開けて笑いかけると、白尽くめの男――今となってはどこからどう見ても男だ――エメを部屋に招き入れた。
エメはいつもそうだ。ゆりが呼べば、どこからともなく現れて、手を引き導いてくれる。ルーシアには「従者」と言われてしまったけど、やはり、ゆりにとってエメは気の置けない友人、もしくは保護者だった。
「ねえエメ、昨日ね、街に買い物に行ってきたの」
「……ひとりで?」
「ううん。ナオトが一緒だったよ」
「そう」
「中央広場にも、行ったよ」
「……そう」
「なんともなかった。へっちゃらだったよ」
「……」
エメはここのところずっと、ゆりに対して過保護だった。
孤児院への送り迎えはもちろん、神殿内でも他の神官が声をかけてくると無言で睨み付けて追い払ったりしている。
それはきっと、以前の誘拐事件の時、ゆりを見失ってしまったという負い目があるからなのだとゆりは思っている。だからゆりは伝えたかったのだ。もう大丈夫だよ、と。
エメはフードの奥で少しだけ眉根を寄せた。
「ユリ……。オレが、いると、邪魔?」
「え? そんなことはないよ」
「オレが、ついてくると、迷惑?」
「ううん。そうじゃない。いつも送り迎えしてくれて、困った時は助けてくれるし、本当にありがたいと思ってる。でも、毎日は悪いかなと思って。エメだって仕事とかあるでしょ? 私のせいでエメに負担をかけるのは嫌だから」
そう言われて、エメは少し考えているようだった。
「…………そ。わかった。じゃあ、毎日は、やめる。でも、時間がある時は、一緒にいる。それでいい?」
「え、あ、うん。ありがとう」
それって今とあまり変わらない気がする、とゆりは思った。だがとりあえず、エメの心の中でゆりに対する罪悪感や、義務感が無くなってくれれば良いと思った。
エメはしばらくゆりの顔をじっと見ていたが、ふと、ゆりの頬に触れた。
「ねえ、ユリ。これ、どうしたの?」
エメが言っているのは、ナオトに贈られた
途端に、ゆりの顔に熱が集まってくる。
「えっとね、今度、連合会議中の夜会に出なきゃいけなくなって、それでドレスや宝石が必要だってことになって、それで買ってもらったんだけど……。ピアス初めてだから、ずっと付けてないと穴が塞がっちゃうから、でも私ピアスこれしか持ってなくて、それでね、」
ゆりが何から説明すべきか考えながらとりとめなく話していると、次第に昨日のナオトとのやり取りを色々思い出してしまい、顔を真っ赤にしながら捲し立ててしまう。
そんなゆりの様子を見て、エメはピアスの空けられた耳に触れるとふうん、と呟いた。
「ナオトに、もらったの?」
「え、うん。……変だったかな?」
「そんなこと、ないけど。……見られてる感じが、する」
「う、うん。そうだよね……」
実はゆりも、孤児院に身に付けていくには少し華美ではないかと思っていたのだ。このピアス、デザイン自体はごくシンプルだが何せ石自体がとてもよく輝くので、髪を下ろして身に付けていてもキラリと光ってはその存在を主張するのだ。
ゆりが落ち込んでしゅん、と俯くと、エメはピアスから手を離し、ゆりの黒髪を手に取った。
「今度、もっと小さいやつ、あげる。普段はそれを、付ければ、いい」
「うん。ありがと……」
そこまで言われてゆりははた、と思い出した。
「そうだ、エメ! 私ね、エメにプレゼントがあるの」
「?」
エメがゆりの髪から手を離すと、ゆりは備え付けの文机の引き出しから、小さな包みを取り出した。
そうしてやや戸惑いがちに視線をさ迷わせてから、エメの手を取りその上に「はい」と置いた。
エメが包みを開くと、その中に入っていたのはシルク製の細手のリボンだった。
「あのね、エメはいつも私のことを助けてくれるでしょ。こないだはお買い物でお金払ってくれたし、ピンチの時も助けてくれたし、それ以外にも、いつもたくさん感謝してるから。
……だから初めてのお給料が出たらエメに何かあげたいなと思ってたんだけど、よく考えたら私、エメの好みをよく知らないし……。それでね、」
ゆりは、少し照れたようにはにかみながら続けた。
「このリボンが、エメの瞳の色と同じだったから。リボンなら髪を結べばいつでも身に付けられるし……と、思ったんだけど。どうかな」
そのリボンは、美しく鮮やかな青みの紫だった。
――ああ、この女(ひと)には自分の眼がこんな風に見えているのか。
普段、エメ本人ですらフードに隠れた自分の素顔をまともに見ていないので、自分が他人から見られている、意識あるもの・形あるものとして認識されている、ということはエメにとって新鮮な驚きだった。
そしてそれは、不思議と心地良かった。
「……そ。ありがと」
エメが短く感謝を述べると、ゆりの顔はぱあっと明るくなった。
「ねえ、じゃあ今結んであげるよ。ね、ほらエメ、ここに座って!」
ゆりは文机の椅子をエメに勧めると、ベッドサイドの小さい棚から櫛を取り出してきた。
エメはやれやれと言われるまま腰を下ろすと、そのまま白いフードを脱ぎ、ゆりの前に素顔を曝した。
美しい金の髪が、少し波打って肩口まで広がっている。首筋の蜥蜴族特有の鱗が、鈍く輝いた。
「うう、エメ、やっぱり髪が超きれい……! う~ん、普段紫外線を浴びてないのがいいのかな? ねえ、編み込みしてもいい?!」
「好きに、すれば」
「フフフ、腕がなる」
そう言って自分の髪を梳けずるゆりの笑顔を、エメはじっと、鏡越しに見ていた。
――『閃光』のエメ。その素顔を見た者は、必ず死ぬと言われている。
少なくとも、ゆり以外は。
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