第六話 ごめんね。ゆり

 ゆりがこの世界に落ちてきてから、既に数日。


 ここまでの道程はゆりが思っていたよりもスムーズだった。

 元々、仕事柄一日中園児達を追いかけ回しているゆりはある程度体力には自信があったし、先頭を歩くドーミオが大鉈で厄介な蔦や枝葉を払い、鬱蒼と繁った地面の草を踏みしめて道を作ってくれたからだ。


 そう、スムーズだった。


「ゆりぃー!」


 今日も今日とてナオトはベタベタと絡んでくる。抱きついて、鼻をすりすりと擦り付け、ゆりの首筋の匂いを堪能している。


「は~あ、今日もいい匂い……抱きまくらのくせにエロすぎなんだよ何なんマジで……スンスン」


  旅の間中暇さえあればこの調子で、夜には本当に抱きまくらにして寝てくるので始末に負えない。最初はあまりの恥ずかしさに抵抗していたゆりだったが、


「抱きまくらのくせに生意気!」

「襲われたいの?」


 と意地悪く微笑まれると、もうそれ以上何も言えなかった。

 始終強引なナオトに押され気味のゆりだったが、次第に――この男の傍若無人さが「巨大な幼稚園児」のそれと思えば、妙にしっくりくることに気が付いた。



 ――ワガママでスキンシップ過多な子って、家庭に問題があるパターンが多かったなあ……。



 実際にナオトの行動原理を知る術などゆりにはなかったが、仕事のことを思い出すと、なんだか放っておけない、全てを許してしまいそうな気分にさせられるのだった。それに何より――。



 “オレのとこにいればいいから。”



 そう言ってゆりに「居場所」をくれたナオトの存在は、既にゆりの中に確実に根を張り、息づいていた。頼るもののないこの世界で、ナオトがゆりに与えてくれる温もりはゆりの心を確かに癒し、繋ぎ止めていた。



「おいナオト、あんまりサカってんじゃねーぞ」


 眉間に皺を寄せたドーミオが嗜めると、余程見かねたのだろう、普段あまり言葉を口にしないエメも加わる。


「大体、普段から……女遊びが、過ぎる。教会に――泥を、塗るな」


 エメの冷たい警告に、ナオトはフン、と鼻を鳴らす。


「だって、女の方から寄ってくるんだからしょうがねーじゃん。オレは来るもの拒まず、去るものは殺す、来ないものは追い詰めたくなるの!」

「最低の下衆野郎だな」


 大威張りで物騒なことを宣言するナオトに、ドーミオはいつもながら呆れて嘆息した。ナオトは何故か勝ち誇ったような表情で再びゆりに抱きつくと、意地悪そうに笑った。


「だーかーら、ゆりも逃げちゃダメだよ」


 黄金の瞳がきらりと輝いてこちらを見つめたので、ゆりはその視線を逸らすことなくまっすぐ受け止めた。


「逃げないよ」

「うん?」


 想定と違う返答だったのか、不思議そうな顔をしたナオトに向けてゆりは微笑んだ。


「ナオトが、ここに……オレのところにいればいいって言ってくれたでしょ。ナオトがこの世界で一番最初に、私に居場所をくれたから。だから、逃げない」



 あの時の台詞も、彼にしてみれば深い意味のない冗談だったのかもしれない、とゆりは思う。それでもいい。ゆりは嬉しかったし、救われたのだから。



 自身の投げ掛けた言葉を素直に受け止め真直に返してくるゆりに面食らったのか、ナオトは耳をぴくりと一瞬緊張させたかと思うと歯切れ悪く口ごもる。


「あ、うん……」


「ね。――だから、あまり必要以上にベタベタするのはだめよ。デンセツのユーシャ様のナオトのファンに嫉妬されちゃったら私、行くところがないし、困る」

「ハイ」


 最後は人差し指を立てて言い含めると、ナオトは素直にコクコクと頷いた。



 ――この女、猛獣使いかよ。



 ドーミオは驚いた。傍若無人の権化のようなナオトを言葉だけで言い含めるゆりにも、はたまたそれに素直に従うナオトにも。

 ゆり自身は、つい癖で悪戯する園児を窘めるような口調になってしまっただけなのだが、ドーミオはその様子を見てゆりの評価を「頭は良さそうだが世間知らずのお嬢様」から改めたのだった。


「私を見つけてくれたのはナオトだもん。……ね、ナオト。私のこと、見つけてくれてありがとう」


 心からの感謝を込めて笑ったゆりは、ナオトが複雑そうな顔を浮かべたことには気がつかなかった。








 月が中天を過ぎた真夜中。


 少年は、泣いていた。


 薄汚れて、孤独で、寒さに震え、お腹を空かせて。

 正確には、眉根を寄せ、口を引き結んで、心の中だけで泣いていた。自分がどれだけ声を枯らし涙を流しても、気にかけてくれる人などいないことを少年は知っていた。



 “なおとくんみーつけた!”



 声がする。女の声だ。


 黒髪で、小柄で、内から輝くような明るさを放つ女だった。

 女は寄り添い、頭を撫で、優しい笑顔を見せる。

 少年が心の底から求めて止まないそれはしかし、少年に向けられたものではなかった。


 大樹の下、女が駆け寄りその名を呼んだのは、少年とは別の人物だった。


 どくん、どくん。

 動悸がする。息が苦しい。喉が焼けてカラカラになり、本能が希求する。

 


  ――あのが欲しい。



 まずいと思った。だが止められなかった。


 次の瞬間、はその女の手を掴んでいた。

 女は手を引かれ、ゆっくりと、仰向きに倒れ込んだ――。






「――っ!?」


 ナオトは焦燥と共に覚醒した。

 その額はびっしりと汗をかいて髪が貼り付き、呼吸は浅く乱れている。自身の腕の中を見れば、夢の中で渇望した黒髪の女――ゆりが、毛布にくるまれ眠っている。

 その時ナオトは理解した。



 ――ゆりは、



 ぱちんと夜営の炎が弾ける音がして、ゆりの顔が仄赤く照らされる。夢の中で故郷を思って泣いていたのか、その頬には涙の跡があった。


「ごめんね。ゆり、ごめん……」


 ナオトは消え入りそうな程小さな声でそう呟くと、ゆりの黒髪に何度も口付けを落とした。



 空に掛かる月と、遠くで夜番に立つエメの背中だけが、それを見ていた。

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