恵方巻き
先日あったエグザキッチンのスタジオ収録の少し前。俺は結衣と一緒に家の台所に立っていたが、これは凄く珍しいことだ。
過去の日本には、男尊女卑的な考えから「男子厨房に入らず」と言われた時代があったとか。だけど、それも今は昔。現代日本では事情が全く変わってしまって、「(危ないから)男子厨房に入ら(せ)ず」が各家庭で罷り通っている。
我が家もこれに倣い、結衣も母さんも日頃から俺に対してとても過保護なので、今までは包丁に触らせてすらもらえなかった。
「お兄ちゃん、絶対に絶対に怪我しないでね。包丁で切るときは、押さえる方の手はニャンコの手だよ」
「ニャンコの手って?」
可愛らしい表現に、ピンク色の肉球と、ふわもこの毛に包まれたまんまるい猫の手のイメージが浮かぶ。あれでパフパフされたら気持ちいいだろうな。
「食材を切るときに、動かないように左手で押さえるでしょ? その時に、こんな風に指先を内側に丸めるの。ちょっとやってみて」
だいぶイメージと違った。招き猫的なグーではなくて、手を軽く握るような感じらしい。
「こう?」
「えっとね、人差し指か中指の関節が少し飛び出るようにするといいよ。こうすると、指を切るリスクを避けられるし、包丁を動かす時に、包丁の側面に指関節が触れて、切るときのガイドになるから」
「なるほど、よく考えられてるね」
「うん。でも、安全かつスムーズに包丁を動かすには、頭で理解しただけじゃダメで、慣れが必要なんだけどね」
なにしろ台所に立つのが初めてだから、包丁の握り方や手の動かし方など、超基本的なことからレクチャーしてもらってる。実際に手を動かしてみると、かなり動きがぎこちない。見るのとやるのじゃ大違いだ。
収録には身ひとつで来てね、なんて番組制作スタッフからは言われている。でもさすがに、初心者未満の状態で行くのはマズいよなぁと思い、練習したいと結衣に頼んで本当によかった。
最初はもちろん断られたけど、収録で作る料理を教えたら、そりゃあ不安だろうと、練習に付き合ってくれることに。
ちなみに「男子厨房に入らず」の由来は、『孟子』にある「君子、庖厨を遠ざくる也」という言葉で、「為政者は己の感情に流されず、君子としてなすべき仕事をしろ」といった意味なのだとか。
儒教思想として中国から日本に入ってきた際に誤った解釈をされ、更に時代に合わせて変容してしまった結果、今がある。
「もし具材を焼いたり煮たりするなら、当然コンロ、あるいはクッキングヒーターを使います。ここで気をつけないといけないのは火傷だね。不意に油がはねる、加熱した調理器具にうっかり触る、高温の蒸気にあたる。こういうのが小さな火傷の原因になるの」
おおっ! なんか、いつもちっちゃ可愛い結衣が、キリッとしてやけに凛々しい。本領発揮って感じなのかも。
「特に同時に複数のコンロで調理をしているときは、心理的な死角ができるので注意が必要です。コンロの上に載っているものだけじゃなくて、周りにも気を配ること。例えば、加熱中のフライパンの側にステンレスのボールを置く。見た目には変化がなくても、ボールがかなりの高温になるから、火傷の原因になります」
心理的な死角かぁ。確かに慣れない場所で慣れない作業を同時進行してたら、注意が行き渡らない気がする。
「また、こんな風に、フライパンや手鍋の柄がコンロ台の外に飛び出ていると、うっかり引っかけてひっくり返す危険があるので、柄の向きには気をつけてね」
聞けば聞くほど、台所は危険がいっぱい。結衣としては、俺に火傷されるのが特に心配なんだって。絶対にそんなことにはならないとは言えないから、慌てず慎重に。無理は禁物だ。
*
《エグザキッチン、節分スペシャル! 今夜はエグザのCMでお馴染みの、素敵なゲストが再登場。スタジオ収録に加えて、録れたてほやほやの豪華ロケも一挙放映。いつもより時間を延長してお送りします。ぜひお見逃しなく!》
いよいよ、俺が出演するエグザキッチンの放映日になった。
TVをつけながら、結衣と一緒に夕飯の支度をしていたら、番組の宣伝が流れた。特番のせいか結構尺が長くて、気合の程が分かるというもの。
練習の甲斐あって、当日は無難に収録を終えたつもりだけど、これから番組を見る結衣の採点がちょっと気になる。
《エグザキッチン、節分スペシャル。本日の特別ゲストは、早くもエグザキッチンに二度目の登場となった武田結星さんです!》
「お兄ちゃん、番組始まったよ」
「分かった。今行く!」
今日は母さんの帰宅が遅めなので、結衣と二人で先に夕飯を食べることになっている。いつもはダイニングテーブルで食事をするけど、今夜は特別にテレビを見ながらコタツでご飯だ。
『今回は節分にちなんだ料理ということで、恵方巻きに挑戦して頂きます。武田さんは、恵方巻き、あるいは太巻きや細巻きを作られたことはありますか?』
『いえ、初めてです。巻き簾に触ること自体が初めてなので、上手くできるか心配ですが、楽しみでもあります』
『恵方巻きは、その年の恵方を向いて食べる習わしがありますが、武田さんは、今年の恵方をご存じでしょうか?』
『確か南南東ですよね』
『正解です! 今年の恵方、つまり年神様がいらっしゃる方角は、仰る通り南南東です。よくご存知でしたね』
『実は、この仕事を頂いてから調べてみて、年により恵方の方角が違うことを知りました』
『勉強熱心ですね』
『付け焼き刃ですが、なぜ節分に恵方巻きを食べるのか気になったので』
『後ほど、恵方巻きの食べ方についても番組内でお知らせします。では、武田さん。早速作って頂きましょう! キッチンセットへの移動をお願い致します。ここで一旦CMです』
「で、結局、お兄ちゃんは何をやったの?」
「焼いたり煮たりする具材は、出来上がりの形で用意されてた。だから、具材を刻んで、酢飯を作っただけかな。あと巻き巻き」
「やっぱり、火は使わせてもらえなかったんだね」
「うん。結衣と同じで番組内で火傷するとマズいからって言ってたよ」
《まずは、一番時間がかかる炊飯から。シンクの前に立つお姿に、期待に胸が震えます。そうです。皆様お分かりですね? ご飯を炊くには米を研がねばなりません。しかし、このままではお袖が濡れてしまいます》
「あのシャツって衣装?」
「うん。これ着てくださいって用意されてたのに着替えた」
シンプルな長袖のシャツで、袖口にボタンが付いていたから、料理にはちょっと邪魔だなと思った覚えがある。
《カメラさんズームお願い! 出て参ります。白シャツの下に隠された尊き前腕が……今、暴かれたぁぁぁ! ガン見推奨! 浮き出る血管、しなやかな筋肉、も、萌え過ぎるぅぅぅっ! 腕まくりする仕草ひとつにも、ため息が溢れます》
「なんか実況が変だけど……そうそう、軽く水で濯いで、水をしっかり切ってから研ぐ。手際よく上手にできてるよ。お米を研ぐ練習をしておいてよかったね」
「うん。現場で簡単な指導もあったけど、予習していたおかげで何をすればいいのか分かったから助かった」
《女性より、ひと回り以上大きなしなやかな手。お指が素敵に長いですね。爪先も綺麗で清潔感が満載なのに、そこはかとない色気を感じ——えっ? 行政指導がきちゃうから、少しは料理の実況もしろ?》
「行政指導って何?」
「えっとね。たぶんだけど、この時間帯は子供も視聴できるゴールデンタイムでしょ? 男性を性的な見せ物にしていると判断されると、お役所に叱られちゃうんじゃないかな」
「性的? 手についての説明が?」
「うん。そう感じる女性が少なくないというか……今のはギリセーフだとは思うんだけど、あれ以上表現がエスカレートするとマズいかなぁ」
「ふぅん。いろいろ大変なんだね」
《 ——はい。当番組は間違いなく料理番組です。軽やかな手つきで、シャカシャカシャカとお米が研がれます。うっとりするようなソフトタッチ。伏せたお顔もセクシーじゃなくて、魅力的です! こんな風に見つめられてかき混ぜられたら、お米も幸せで昇天していることでしょう!》
「そろそろ食べ始める?」
「そうだね。お腹が空いてきたかも」
恵方を見て食べる用の細めに巻いた一本以外は、食べ易くカットしてある。作った太巻きは二種類。通常のと豪華な海鮮巻きだ。
《大晦日に落とし損ねた煩悩のように、白く濁った研ぎ汁が濯がれ、排水孔に流れていきます。見ているだけで心が洗われるような光景です》
厚焼き卵を焼くのと、干瓢と椎茸の甘辛煮、海老を茹でるのは結衣がやってくれた。俺は、胡瓜と蒲焼きを切って、海老の殻を剥き、番組でやったように酢飯を作ってみた。
まあ、順当だよね。味付けしたり、火を使う調理は結衣がやって、俺は切ったり剥いたり混ぜたりだ。
あっ、でも、お刺身を切るのは結衣がやった。切るのが難しいというのもあるけど、お刺身包丁がキレッキレらしくて、怪我しそうだと任せてもらえなかったから。
《恵方巻きの具材は、七福神にちなんで7種類入れるそうです。各具材には意味があって、干瓢と海老は長寿、干し椎茸は壮健、鰻は出世運、厚焼き卵は金運、胡瓜は九つの利、桜でんぶはメデタイと、縁起良く彩りも鮮やかです》
「結衣、この海鮮巻き、めっちゃ美味い。マグロ、サーモン、イクラ、イカ、海老を同時に味わえるなんて贅沢だね」
「でしょう? 今回は思い切ってかなり材料費をかけたから。まだ冷蔵庫に材料は残ってるから、明日のお昼は海鮮お稲荷を作ろうかなって思ってる」
「酢飯を多めに作ったのは、そのため?」
今回、お米は5合炊いた。恵方巻きを作るのにその2/3程度を使ってる。随分と酢飯が余るなって思ってたんだ。
「そう。お稲荷さん用だよ。1合で8個くらいの計算だから、結構沢山できるよ。だから、半分はすぐ食べる用に海鮮お稲荷にして、残りは胡麻を混ぜた普通のお稲荷さんにするつもり」
「皮も自分で煮るの?」
「うん。ちょっと手間はかかるけど、好きな味付けにできるから」
「だったら、ちょっと甘めがいいな」
「お兄ちゃん、甘いのが好きなんだ?」
「うん。なんか甘いと優しい味がするんだよね」
《無防備に広げられた巻き簾の上に海苔が、さらにその上に昇天済みの酢飯が乗せられていきます。丁寧に具材を並べたら、いよいよ巻きです。私も簀巻きになりたい。切実にあの手に包まれたい。丁寧に簀巻きにされる恵方巻きに、思わず嫉妬してしまいます》
「そういえば、南南東ってどっち?」
「さっきスマホで調べたら、庭が真南を向いているから、ちょっとだけ左よりを向けば南南東になるみたいよ」
《恵方巻きは、恵方を向いて、願いごとをしながら一本丸ごと無言で食べます。ただし、地方によってルールが違うこともあるので、あまり気負わずに、美味しく頂けばOK》
恵方を向いて食べるのは、厄を落としと招福のためだとか。口から福が逃げないようにと無言で。縁を断ち切らないように一本を丸ごと一度に食べて、運気を一気に取り込む。願い事を忘れずに!
《本日は節分をテーマにお送りしましたが、いかがだったでしょうか? ここで、番組スポンサーから新発売のお菓子のお知らせです。
人気アーケードゲーム『
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