5-26 地球の表側と裏側で

 

「コミュニケーションの第一歩は気持ちの良い挨拶から。これはどこの国でも同じです。ではこれから、日常でよく使う基本の挨拶を覚えていきましょう」


 なんで?


「耳から覚えるのが一番なので、今は板書はしません。まずは朝のおはようの挨拶です。私の後に続いて返事をするように繰り返して下さい『Bomボン diaヂーア!』」


「ボン ヂーア!」


「いいですね。もう一度。Bom dia!」


「ボン ヂーア!」


 ……いったい全体、どうしてこんなことに。


 津々木くららは、現在寄宿舎生活を送りながら、オンライン授業で言葉の勉強を始めたところだった。なにしろあまりにもチンプンカンプンで、このままでは日常生活もままならない。


 英語ならそこそこ自信があり、簡単な英会話くらいなら任せてよと自負する彼女。でもここは英語圏の国ではない。

 空港、ホテル、あるいは首都近郊であれば、おそらく英語も通じたに違いない。しかし、都会から遠く離れた風光明媚な地方都市では無理だった。こうして都市部の語学学校のオンライン授業を聴講する設備があっただけでも幸いと言っていい状況だった。


「お昼の挨拶はBoaボア tardeタルヂ!」


「ボア タルヂ!」


 ポルトガル語が全く分からない自分がなぜここに派遣されたのか? いまだにその疑問は解決されていない。何もかも唐突で、訳がわからなかった。


 先日、聖カトリーヌ学院の理事長室に一人呼び出された。てっきり、あの騒ぎについての事情聴取かなにかだと思っていたのに。


「おめでとう! あなたの聖母都市の姉妹校への派遣が正式に決定しました。これは大変に名誉なことなのですよ」


 理事長から直に告げられたのは、唐突な海外留学決定の知らせだった。くららが戸惑い、あたふたしている間に、どんどん渡航手続きが進められ、気がつけば飛行機に乗せられて、あまりにもスムーズにここまでやってきた。


 本人の意思確認は? 


 留学話についての詳細を周りに確認しようとすると「おめでとうございます!」「素晴らしいですわ!」「わたくしたちの代表者として応援しています!」と褒めそやされるだけ。まるで海外の学生弁論大会に学校代表で行ってくるようなノリだった。

 だから、きっと悪いことじゃないのだろう、こんなに慌ただしく決まったのだから、数週間程度の短期留学に違いない。そう思っていたのに。


 気持ちを切り替えて観光気分でやって来たところ、どうやら思っていたのと違うようだと現地に着いて初めて気づいた。


 かつては困窮する女性のシェルターとして南米中に名をはせたアパレシーダ聖母都市。その中心的な存在であるアパレシーダ聖母修道会ーーの経営する学校。そこに卒業するまで通うという。


 学校の正式名称を日本語に訳すとアパレシーダ聖母修道会寄宿学校となる。その創立理念は「貞潔・清貧・従順」。


 数年間ここ過ごすと、創立理念を具現化したような素晴らしい女性になると言われている。なぜなら、この学校は単に学問を教えるだけではない。前身が女性の経済的な自立を支援する家政学校であったことから、料理・裁縫・掃除・洗濯なども精神修養の一環として卒業単位に取り入れられているからだ。


 外に出られるのは社会奉仕活動の時だけで、寄宿生活も自給自足を前提とした共同生活であり、畑仕事にも参加する必要がある。


 周囲には見渡す限りの田園風景が広がり、公共の乗り物さえ通っていない。繁華街? なにそれ状態であった。俗世間から隔絶された究極の乙女の集う場所。


 生徒はもちろん女子だけだ。教師も出入りの業者も用務員さんも全員女子。それどころか、くららはまだ気づいていなかったが、このアパレシーダ聖母都市自体が、男性が激減した世界でも珍しい「女性の女性による女性のための女性だけが住む都市」として有名な場所だった。


「では、今回の授業はこれで終わりです。来週お会いしましょう。Atéアテ maisマイス(またね)! Bonボン finフィン de demanaセマーナ(良い週末を)!」




 そして週末の土曜日。地球の裏側の日本では。


 聖カトリーヌ学院の白を基調とした瀟洒なカフェテリア。そこで仲良く隣同士に腰掛けて、背の高いグラスに品良く盛られた新作デザートを堪能している二人。言わずもがな高坂花蓮と皇極斉子である。


 花蓮の前にはパルフェ・オ・ショコラ、斉子の前にはパルフェ・オ・フレーズ。いわゆるチョコレートパフェとストロベリーパフェが置かれている。


 どちらも予約していないと食べられない特注品だった。


 それもそのはずで、花蓮がショコラが好きだと知り、お抱えのパティシエに指示してレシピを考案させ、ここのメニューに追加するように指示したのは斉子だったから。


 そのお抱えパティシエが、今まさにカフェテリアの厨房にいることも、もちろん花蓮には内緒だ。


 お金に糸目をつけずに材料を吟味厳選している。。溢れるカカオの香りを閉じ込めたようなチョコレート・パンナコッタに、濃厚なガナッシュソースと甘さを抑えたコクのある上質な生クリーム。さらに職人の技術が光る口どけ滑らかなチョコレートアイスにチョコレートクリームをたっぷり挟んだサクッとした食感のチョコマカロン。


 これでもかとチョコづくしなのに、まとまりがよく上品な味わいだ。


「花蓮様、パルフェ・オ・ショコラのお味はいかがです?」


「とても美味しいよ。ここのカフェテリアって凄いや。そこら辺のお店じゃこんなの食べられないよ。極めて贅沢な感じ。こうぎょ……斉子もちょっと食べてみる?」


 斉子にカフェテリアに誘われたとき、自分にとてもよくしてくれていたのに、しばらく疎遠にしていたことを花蓮は率直に詫びた。


 気分を悪くしていても当然なのに「これから、わたくしのことも名前で読んでくださる? 『斉子』って。それが仲直りの印ですのよ」といって、にっこり笑いながらすぐに許してくれた。


 そしてその足で二人でパフェを食べに来たのだが。


 実際に出てきたものを見たら、季節のパフェであるストロベリーパフェは大変豪華な作りではあったが、チョコレートパフェはそれ以上に凝っていた。わざわざ違う味を予約したのは、両方を味見してみたいからではないか? 自分がそうだから斉子もそうだろうと花蓮は単純に考えた。


「いただいてもよろしいのですか?」


「うん。これは是非味見してみた方がいい。めっちゃお勧め。あっ! でも、新しくスプーンをもらわないとダメかな?」


 斉子のストロベリーパフェ用のスプーンに濃厚なチョコ味ついてしまうのは避けたい。でも、斉子のような上流のお嬢様に、自分が使ったスプーンを差し出すのもどうかと、花蓮は迷いを見せた。


「そのスプーンで構いませんわ。だってわたくしたち、仲良しですもの」


 そう言って、ニッコリ微笑む斉子に、思わず見惚れてしまう花蓮。


(いやあ。光り輝く美少女って、いるところにはいるものなんだなぁ)


 生まれも育ちも良く、品がある美人な上に性格も親しみがある。この学院で最高クラスのセレブだと聞いているのに、それを全くひけらかさない。


 花蓮の斉子への好感度は、その人柄を知り、親しくなればなるほど上がっていった。


「花蓮様?」


「あ、味見だよね。このパンナコッタが絶品なんだよ。生クリームを乗せて食べると益々美味しいよ」


 慌ててそう言いながら、斉子にグラスを差し出す。


「どの辺りですの?」


 層状になったグラスの中身を覗き込みながら首を傾げる斉子。


「えっとね。グラスの真ん中へん。と言っても、チョコづくしだから分かりにくいかもしれないね。よければスプーンにすくおうか?」


「お願いします」


 そして柄の長いスプーンに盛ってみたものの、フルフルと震える絶品パンナコッタは、いざスプーンを手渡そうとすると溢れてしまいそうだ。


「このまま食べちゃおうか?」


 女の子同士だし変じゃないだろう。そう思って差し出したスプーン。少し躊躇いを見せながらも斉子はそのスプーンから直接食べた。とても幸せそうに。


 おそらく幼児の時以来になるシチュエーション。それも恋焦がれている相手と。斉子の乙女な胸は騒めき、キュンキュンになった。


 そして、ぷるんぷるんの絶品パンナコッタを作ったパティシエに、臨時ボーナスを出すことを決めた斉子であった。


 *


 パルフェを食べ終わり、香り高いカフェを飲みながら近況を話し合う二人。


「驚いたよ。くららが特別支援留学生に選ばれるなんてね」


「とても貴重な体験ができそうですわね」


「あれって、希望すれば誰でも行けるわけじゃないんだよね? 確か有力者からの推薦が必要だって聞いてる」


 花蓮は生徒会長をしていたくらいなので、そういった留学費用の補助が出る制度については、ひと通り知ってはいた。自分が興味がなかったので詳しい条件まではチェックしていないが、くららの留学先はその中でも一際審査が厳しい学校だったはずだ。


「もしかしたら、時期外れにこの学院に編入してきたのは、そのためだったのかもしれませんわね」


「確かに変な時期だったよね。そっか。最初から留学前提で入ってきたって考えた方が自然かもしれないね」


「花蓮様は留学にご興味がおありになるの?」


「ううん。海外の寄宿舎生活なんて自分には無理だよ」


「津々木さんの留学された学校は大変に指導が厳しいと有名ですけれど、自由な校風のところもありますのよ。でも花蓮様は、カトリーヌ学院大学に内部進学をご希望かしら?」


 斉子は花蓮が内部進学希望の申請書をまだ提出していないことを知っていた。今日は久しぶりの花蓮との逢瀬だったが、花蓮の進学先について本人の意志を確認しておかなければいけないと、予め考えていたからこその質問である。


「そのつもりだったんだけど、麻耶が外部受験するって聞いたのもあって外もいいかなって思うようになった。自分も外に出るかもしれない」


 女性としての人生を一旦は覚悟した花蓮であったが、将来、万一の可能性として男性に戻れた場合、女子大学出身という経歴がどう響くのかを懸念していた。


 保身に走るあまり、手堅く内部進学でいいかと思ったこともあったが、親友が外部受験をするのであれば、自分だってできるのではないか。そう思い直したのである。


「まあ! 驚きましたわ。外部の大学というと、どこをご希望されていますの? 参考までにお伺いしてもいいかしら?」


「共学の総合大学で、一番気になるのは爽馨大学かな。麻耶がそこの法学部志望なんだって」


「じゃあ花蓮様もご一緒に?」


「自分は行くなら政治経済学部かな。法学部も受けるとは思うけどね」


「素敵ですわね。もし外部受験されるなら、わたくしもできる限り応援致しますわ」


「ありがとう。斉子とは違う大学に進んでも友達なのは変わらないから」


 友達以上に進みたい斉子は、花蓮がどんな道を選んでも共について行こうと、この時決意したのであった。

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