この男に甘い世界で俺は。〜男女比1:8の世界で始める美味しい学園生活〜
漂鳥
第1部
第1章 転入編
第1話 甘い男
「お兄ちゃん、起きて! 朝だよ」
誰……かの声が聞こえる。今なんて?
頭が妙にぷわぷわして思考は停止状態。
ダイレクトに響かない、やけに籠った音。薄い膜ーー例えば卵膜? みたいなのを通して、遠くから響いてくる。だから、どこか現実感を伴わない。
それでも、唯一明瞭に聞こえた「朝」という言葉に反応して、ノロノロとベッドから身を起こした。
「朝? ……もう?」
眠い。鈍くぼやけた頭を振る。なんだろう、この酷い違和感は? 自分の身体が、自分のものでないような。
「お兄ちゃん、また夜更かしたの? 急がないと遅刻しちゃうよ」
部屋の入口から、再び声が飛んできた。遅刻って? 遅刻……!
「今、何時?」
まだ働かない頭で、反射的に聞き返す。
「七時半!」
やべっ!
その言葉で一気に覚醒する。慌ててベッドから抜け出し、いつもの習慣で浴室へと直行した。
ヒュッ! 冷て。水が肌を伝う感触に、肌が軽く粟立つ。
でも時間がない。七時半だよ、七時半! まだお湯になりきっていない冷たいシャワーを無理矢理浴びて、あるはずの寝癖を直した。烏の行水だけど、この際我慢だ。
浴室を出ると、無造作に伸ばした手にタオルが触れた。引き寄せて軽く身体を拭き、そのまま首にかける。
ボタボタと雫を落とす髪。適当に水気を拭いながら、洗面台横の戸棚に向かったときーー鏡の中の人影がチラッと視界の隅をよぎった。
えっ!?
一瞬掠めた映像に目を奪われ、そこで初めて正面にある鏡に向き直る。
はいっ!?
あまりの驚きに、惰性で髪を拭いていた手が止まってしまった。
誰……こいつ?
洗面台の壁一面に張られた大きな鏡。そこに一人の若い男が映っている。
その男をマジマジと見つめると、向こうも同じようにこちらを見つめ返してきた。鏡に手を触れ、覗きこむように近づけば、鏡の中にいる人物も近づいてきて、吐息でガラスが白く曇る。
鏡像……なのか?
でもそこに映っているのは、どう見ても自分じゃなくて。だって、こんなやつ俺は知らない。見たこともない。じゃあこれは誰?
それに……なに、この眩しいイケメン?
鏡の中にいるのは、薄茶色の濡れ髪からポタポタと水を垂らした、やけに色気のある男で。まさに水も滴るいい男。その姿は、よく女性誌の表紙に載っているような、半裸の男性タレントみたいだった。
……おかしい。
現状がおかしいのか、それとも自分の認識がおかしいのか。それすら判断がつかなくなってくる。めっちゃ混乱してる。
どうしよう? どうすればいい? 病院か? そもそも俺は……。
何度瞬きをしてみても、状況は全く変わらない。鏡に映っているのは、相変わらず魂を抜かれた様に呆然とした、見知らぬ若い男。
そこらのアイドル顔負けの、超甘いマスクをした、物凄いイケメンだった。
そう甘い……とても甘い。激甘だ。
例えるなら、プリンの上にとろりとかかった、濃厚なカラメルソースーーみたいな?
ん? なんで食い物に例えてるの?
でも急にそんなイメージが浮かんできたから。いや、これは……もうダメかもしれない。動転。混乱、意味不明。そういったもので、頭の中がいっぱいになっていく。
だって。だってだって。こんなの、俺じゃないよ……。
◇ ◇ ◇
「お兄ちゃん。私、先に行っちゃうからね。朝ごはんは用意してあるけど、さすがに食べていたら遅刻かな?」
しばらくそのままボケッとしていたら、洗面所に妹ーーじゃない、見知らぬ女の子が顔を出した。あの声の子だ。俺をお兄ちゃんと呼ぶこの子も、今のところ正体不明なわけで。
「君は……誰?」
「うん? どうしたの? 妙なこと言い出して。
俺を見上げながら、さも当然というように、自己紹介をする少女。
「結衣? 君が妹? じゃあ、俺は誰?」
「へ? やだお兄ちゃん、そこまで寝ぼけてるの? 私、もう本当に行くからね!」
「ねえ! 俺が誰か教えてよ!」
「
バタバタと逃げるように、結衣と名乗る少女が家を出て行く音がした。
待って! という暇もなかった。でもあの様子じゃあ、声をかけても待ってくれなかった気もする。
それにしても、結星? お兄ちゃん?
それって変じゃん。俺には妹なんていない……はず。やだな。なんか急に自信がなくなってきた。それに俺の名前は……あれ? 俺の名前って、なんだっけ?
額に手を当てて考える。
自分の名前。知っていて当たり前のことが、この瞬間に分からなくなる。喉元まで出かかっているのに、カケラも答えが出てこない。
砂が溢れるように抜けていく記憶。急激に迫る喪失感。
おかしい。いくら考えても、何度考えてもおかしい。俺は誰? これって記憶喪失ってやつ?
肝心なことが何も思い出せない。
不安になって辺りをキョロキョロと見回す。ひどく落ち着かない気分になり気が焦る。家は……変わっていない気がーーいや、慌てていて気づかなかったけど、よく見ると所々違う。
洗面所の床に敷かれたマットの模様。洗面台に置いてあるコップの色。この首にかけているタオルだって、どれも見慣れないものだ。
知っているようで知らないもの。どれが本当? 一旦そう思い始めたら、益々記憶が曖昧になり始めた。
わけが分からない。
いずれにしても確かなのは、記憶、あるいは認識がおかしいということ。とりあえず部屋に戻って、それから考える?
でも部屋って。あれ?
先ほど出てきた部屋は、俺の部屋だよね? でも本当にそう? 部屋の中はどうなっていた?
自分が置かれている状況を把握すればするほど、ただ困惑する気持ちばかりが強く湧き上がってきた。
次に何をすればいいのかさえよく分からず、途方に暮れてしまう。
だから仕方なく、俺はぷにゅぷにゅと不安定になった気持ちを抱えながら、足取りも重く、先ほど俺が寝ていた部屋へと戻っていった。
◇
改めて四方をぐるりと見回す。……うん、凄くしっくりとくる。この感覚は、ここは俺の部屋だよって言ってくれている気がする。
アイボリーカラーの寝具に、焦げ茶色のベッド。カラフルなグルメマップや食べ物関連の本が並んだ本棚。余計なものが少ない、こざっぱりとした室内。どれに対しても、全く違和感を覚えない。それどころかむしろ、自分のテリトリー的な安心感すら与えてくれる。
そんな風に細かい部分まで観察してみたら、壁際の机の上にふと目が留まった。何かある。やけに目につく、濃い卵の黄身みたいな色をした何かが。
近づくと、それが一冊の本であることが分かった。でも、こんなの見覚えがない。
恐る恐る、その本を手に取ってみた。予想していたよりも重い。表紙に張られた布の感触が、サラサラと手に馴染む。
これは、凄く大事なものなんじゃないか。本に指先が触れた瞬間に、そんな思いが湧き上がってきた。
そう、これは「読まなきゃいけないもの」だ。直感が強くそう訴えかけてくる。
……
本に栞が挟んである。改めてよく見ると、その本と思ったものは、どうやら日記帳のようだった。
光沢を放つ黄色い布地に、植物を模した優美な金色の箔が押されている。美しいが、しかしひどく派手なその本の背表紙には「
中を見ようとしたら、栞が挟んであるところで、自然に日記帳がパタンと開いた。
◆ 6月 6日 ◆
そのページには日付しかなかった。
それ以前のページには…… パラパラとページをめくると、前の方に何か記載があるのが見える。
日付を遡りながらザッと読んでみて、記載されている内容に
これは俺の日記帳だ。
いや正確には、こうなる前の
なぜかそうと確信ができた。書いてあるのは、まるでふざけた内容だった。とても信じられるものじゃないーーにもかかわらず。
今の俺が置かれた状況を理解するためには、この日記帳は「読まなきゃならないもの」だ。先ほどと同じく、その思いが強く心を捉える。
オカルティックな強迫観念にも似たその思い。
なんだか怖い気もするが、そうも言っていられない。よし! 覚悟を決めた。
ページを戻り、日記帳の最初のページを改めて開く。そして恐る恐る、そこに書かれている得体の知れない誰かのメッセージに、俺はゆっくりと目を通し始めた。
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