第53話 ハグ

 わざと少し開けておいた部屋の扉をあえて閉めていった母親のいらぬおせっかいに心の中で毒づきながら圭太はまた扉を少し開ける。ひょっとすると廊下にまだ潜んでいるかと思ったがさすがにそこまではしていなかった。あとでゆっくり尋問すればいいと思っているのだろうと想像する。


「そ、それじゃ、ぬるくならないうちに頂いちゃおうか」

 圭太はういろうを手でつまんで反対の手で麦茶のコップを持つとベッドに戻る。柔らかい触感のお菓子をひとかじりして麦茶を飲んだ。冷たいものがのどを滑り落ちて行って少しだけ落ち着きを取り戻す。


 手づかみで食べる圭太と違って、宇嘉は上品に黒文字を使ってういろうを口に運んでいた。氷が溶けて動きカランという涼やかな音が響く。母親の余計なセリフを意識から追いやり、圭太は先ほどの話の続きを始める。


「それで、日中一緒にいたのは、お袋の妹の京香さん。俺に抱きついてきたのは京香さんが酔ってふざけただけで意味はないんだ。昼間から飲みすぎなんだよ。いきなりだからよけられないし、よけたら叔母さんが倒れそうだったから……」

 別に圭太は悪くないのだが、どうしても弁解じみた言い訳をしてしまう。


「え? そうなの?」

 宇嘉は自分の勘違いを知らされて血の気が引く。自分の息子の頭を胸に押し付ける母親もどうかとは思っていたが、それすらも冤罪だということが分かって、穴があったら入りたい気分だった。


 飲み食べが終わるとお互いに気まずい沈黙が場を支配する。外からはミンミンとセミがやかましく鳴いていて暑さがより一層増した。飲んだ分の水分がすべて汗となって出てくるのに閉口しながら圭太は袖で顔の汗をぬぐう。一方で宇嘉はちっとも顔に汗をかいていない。


「やっぱり暑いね。あ、俺だけか」

 意味もなくはははと笑うと宇嘉も手の平で顔をあおいだ。

「そうね。びっくりしたから変な汗もかいちゃった」

「ぜんぜん出てないじゃん」


「それは顔だけよ。背中はけっこうひどいわ」

「そうなの?」

 急に宇嘉はいたずらっぽい笑顔を浮かべた。色々あったが奇貨居くべし。圭太と部屋に二人きりなのだ。

「じゃあ、見てみる?」


 宇嘉はついと立ち上がると圭太の横にちょこんと座って背を向けた。紗の単衣なので近くによれば中の襦袢まで透けて見える。圭太は泡を食って立ち上がった。机の上のお盆をつかむ。

「もう1杯もらってくるよ」


 どたどたと階段を下りていくと下の方から圭太と遥香の話し声がとぎれとぎれ聞こえた。お客さんをほったらかしにしてダメじゃない。そんな感じの言葉に圭太が何かいっているが聞こえない。しばらくすると麦茶をお盆に載せて圭太が戻ってくる。コップを宇嘉に手渡すと自分は椅子に座った。


 ある意味想像通りだが肩透かしをくらった形の宇嘉はコップを持った手を膝の上に置く。遥香が下にいてはそれほど凄いことはできないにしても接吻をするなり、着物の合わせ目から手を差し入れるぐらいすればいいのに。しかし、宇嘉のことを意識しまくってがちがちになっている圭太を見て無理だろうなと思いなおす。


 ならばこちらから仕掛ければいいのだが、位置が逆転してしまってなかなか次の手が打ちにくかった。さきほど背を向けずに押し倒してしまえば良かったと後悔する。宇嘉はベッドに座ったまま、本棚を見るとはなしに眺めると1冊のハードカバーのタイトルが目に留まった。現代語訳『黄素妙論』。


 高校生の本棚には似つかわしくない題名だ。他は文庫本やコミックしかない棚で異彩を放っている。

「こうそみょうろん?」

 無意識のうちに言葉が口から洩れる。その途端、圭太がむせ返る。ちょうど口にしていた麦茶が気管支にでも入ったらしい。


 宇嘉のつぶやきが耳に入り脳内で文字が浮かび上がると圭太は思いっきり焦る。げほげほっ。宇嘉が立ち上がって圭太の傍に寄ると背中を軽く叩いた。

「あ、ありがとう」

「どうしたの急に?」


「どうしたのかな? うまく呑み込めなかったみたいだ」

 一生懸命取り繕うとする。迂闊だった。言葉の響きはお堅い感じだが中身はアレである。宇嘉に悟られればきっと軽蔑されるだろう。それだけならまだしも、学校で変な風に話をされても困る。


 圭太って見た目通りの超むっつりでさ、部屋にアレのハウツー本なんか置いているんだよ。そんな話をされたら、せっかく向上しつつある圭太の立場はまた地に落ちてしまうだろう。後藤寺さんはそういうのは嫌いだろうし、市川さんもきっと軽蔑するに違いない。


 そんなことを圭太が考えているとは露知らず、宇嘉は圭太の頭を見下ろしていた。少し屈めばちょうどいい高さよね。昼間に見た京香への敵愾心を燃やしながら圭太の頭に手を回す。私だってちょっとはあるんだから。上半身を倒すと包み込むようにして圭太の顔を抱きしめる。


 咳き込んだところからやっと普通の呼吸ができる状態にもどったばかりだった圭太は気が付けば顔を柔らかなものに押し付けられていた。京香おばさんに比べれば非常に慎ましいものではあったもののふにゅんとした柔らかな感触を頬に感じる。同時に得も言われぬ香しい匂いに包まれた。


 甘い爽やかなこの年代の女の子特有の香りだった。しかも直接である。圭太は今自分がどのような状態にあるのか理解すると茹で上げた蟹のように真っ赤になる。自分の腕の中でかっと圭太の体温が上昇したのを感じ取り宇嘉は満足だった。着物の前をはだけたいという衝動をこらえると宇嘉は身を離す。


「むせたのは落ち着いた?」

 あくまで体を気遣っての行動と言い張れる予防線のセリフを口にした。京香の時よりも自分の時の方がより圭太は顔が赤くなっている。圭太の反応に気をよくした宇嘉は今日のところはこの辺りが潮時だと判断した。

「じゃあ、今日はもう帰るね」


 茫然としていた圭太は我に返り、慌てて立ち上がると、宇嘉を追い抜いて階段を先に下りた。キッチンの遥香に挨拶をして宇嘉は丁寧に頭を下げる。

「どうもお邪魔しました」

「また遊びにいらっしゃい」


 玄関まで送りに出た圭太はドアを閉めて振り返るとそこににやにや笑いをした悪魔を見出す。

「さあて、色々と白状してもらいましょうか。まずはそうねえ。あの子とはどこまでやったの?」



 

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