第2話 引っ越し

 圭太が3年前まで住んでいた家に戻ってきたのは、3月も終わりになった。申し込んでいた個別指導塾の講習を受けていけということになったからだ。夜遅く着いて敏郎に出迎えられる。身の回りの私物を詰め込んだバッグを担いできてクタクタだった。風呂に入ってさっぱりすると父親がほうじ茶を入れてくれる。


「じゃ、悪いけど、俺もう寝るわ」

「そうか。まあ、疲れただろうし、そうした方がいいな」

 一旦口を閉ざした敏郎は言葉を継いだ。

「そう言えば、母さんから何か預かってないかい?」


「ああ。ごめん。忘れてた」

 圭太はバッグをごそごそとかき回し、15センチほどの正方形の薄い物が入った封筒を父親に渡す。

「それじゃあ、おやすみ」


 階段を上って昔使っていた部屋に行く圭太には、封筒を愛おしそうに眺める敏郎の姿は目に入らない。いそいそと自室に引き上げた敏郎がその封筒の中身をどうしたのかは秘密である。綺麗に片付いた部屋のベッドに倒れ込んだ圭太はすぐ眠りについた。そのため、圭太の部屋の窓がある側の隣の敷地で、ガタゴト夜遅くまで物音がしていたことに前川家の二人は気づかなかった。


 翌朝,圭太が目が覚め、部屋のカーテンを開けると窓の外の風景に違和感を覚える。確かそこには木が密生するちょっとした雑木林があったはずだった。今見ている視界には木も生えているが、立派な日本家屋が建っていた。瓦葺の2階建ての建物は雨戸を閉め切り春の日の中に静かに佇んでいる。唯一雨戸の空いている2階の部屋の窓に人影が一瞬ちらりと見えた気がした。


「あんな建物あったかな?」

 圭太はまだぼんやりとした頭でひとりごちる。確か隅の方に朱塗りの小さなお社があったはずだけど。圭太の部屋の窓からは確認することができない。ま、いっか。圭太はバッグから出した服に着替えると階下に降りて行った。


「お早う」

 挨拶をすると敏郎が炊飯器からご飯をよそっているところだった。

「おう。おはよう。ゆっくり寝てればいいのに。起きたならメシ食うか?」

「ああ。そうする」


 鮭の切り身、納豆、青菜の味噌汁が並ぶ。

「いただきます」

 今まであまり顔を合わせなかった父親と二人きりということで黙っているのに耐えられず圭太が話題として先ほど見た隣地の話をする。


「隣に家が建ったんだね」

「ああ。そうだな。建った」

「何時できたんだ?」

 世間話のつもりで聞いた質問の答えに圭太は驚くことになる。

「1週間ほど前かな」


「え? それにしちゃ新築って感じでもないけど」

「ああ。どこかから移築してきたらしい。挨拶に来た工事業者がそんなことを言っていた。あれよあれよという間に建ったよ。まだ、施主は越して来てないみたいだけどな」


「俺は良く知らないけど、家ってそう簡単に建つものなのか?」

「墨俣城は一夜で建ったぞ」

「そりゃ伝説だろ」

「まあな。まあ、他所から持ってくるならできるんじゃないか。俺は直接見てないから知らんけど」


「隣に家が建ったというのに興味が無いんだな」

「まだ家主に会ってないからなあ」

「そういや、人影が見えた気がするよ」

「そうか。じゃあ、圭太、用意してある粗品でも持って前川家代表として挨拶しておいてくれ」


「なんでこっちから。しかも俺なんだよ?」

 抗議の声を上げる圭太に敏郎は言った。

「それこそ隣人が気にならないかと言ったのはお前だ。俺も気にはなる。だが、俺は仕事だ。それにお前も引っ越してきたようなもんだからな。じゃあ、後は頼むよ」


 敏郎は食べ終えた食器を台所に運ぶと身支度を始めた。圭太はまだ半分も食べていない。

「随分、速いんだな。ちゃんと噛んでるのかよ?」

「社会人にとっちゃ、早飯、早グソ、芸の内ってな」

 圭太が食べ終わる前に企業戦士は颯爽と出勤していった。


 圭太は食器を洗い、敏郎が回しておいた洗濯機から洗濯物を取り出して干す。母親と暮らしていた時も分担していたことだから苦ではない。ただ、洗濯物を止めて置くピンチなどのありかが分からなくていつもよりは時間がかかってしまった。さて、面倒くさいが隣家を訪問するか。


 敏郎の言っていた品を持って隣家に向かう。あっという間に着いてしまった。お隣なのだから当たり前だ。門のところで見回すが呼び鈴のようなものは見当たらない。家の門は半分開いていたので首を突っ込むと、雨戸が開け放たれていることが確認できる。これでは訪ねたが不在だったという言い訳は通用しそうにない。


 敏郎はあまりガミガミ言う方ではないが、一旦引き受けたことを理由もなく遂行しないことには割とうるさい。仕方なく圭太は敷地に入り玄関に向かう。右手の方の木柵の向こうに赤い小さなお社が見えた。まだあるんだ。玄関わきにはカメラ付きのインターホンがついていた。そのボタンを押す。


「どちら様?」

 女性の声で返事があった。インターフォン越しなので分からないが割と若いような気がする。

「隣の前川です。父は前から住んでるんですが、私は今日から引っ越して来ました。その挨拶です」

「あら。こちらからご挨拶に行くべきところなのにごめんなさい。ちょっと待っててね」


 ちょっと間が空いてガラス戸に人影が写る。ガチャリと鍵の開く音がするとガラガラと戸が引き開けたれた。中から現れた人物を見て圭太はびっくりする。着物を身に着け、束ねた髪の毛を腰まで垂らしたスラリとした体つきの女の子がほほ笑んでいた。くりくりっとした大きな瞳が印象的な色白の美貌が圭太を見ている。


「あ、前川圭太です。これはご挨拶の……」

 ようやく我に返り言葉をかける。その挨拶に美少女は被せるように言った。

「お久しぶりね。圭太くん」

 え? だれ? 圭太は激しく動揺する。こんな美少女の知り合いは記憶になかった。


「こんなところで立ち話はないわ。ね、上がってよ」

 少女はきゅっと笑った。それから、すっと手を伸ばし圭太の手を掴む。血管の透き通るような美しい手の仄かな温もりを感じて圭太の心拍数は一気に跳ね上がった。

「ねえ。遠慮しないで。私たちそんな間柄じゃないでしょ?」


 圭太は口ごもりながら言った。

「えーと、誰かと間違えているんじゃないかな。俺は君と会ったことはないと思うんだけど」

 頬を赤くしながら、圭太は頭の片隅で思う。惜しい。これでサイズがあったらパーフェクトなのに。


「そっか。圭太は私の事知らないか。そりゃそうだね。ずっと私は見ていたけど圭太は知らないよね。まあ、とりあえず上がってよ。挨拶に来たんでしょ。お茶ぐらいはお出しするからさ」

 膨らみに欠けるとはいえ、これだけの可愛らしい女の子に誘われて断れる圭太ではなかった。

 

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