雨の日のサンチマンタリスム
中川 弘
第1話 六月四日の電話
テレビに衝撃的な映像が映し出されていました。
一人の痩せた男が、カバンを手にして、戦車の前に立って、行く手を塞いでいるのです。
たった一人の人間の前に、鉄の塊のような戦車が、それを避けようとして、あたふたとしていたのです。
北京は天安門広場のあの一件です。
人民解放軍の農民出身の兵士たちが、隊列を組んで、その銃に実弾を込めて、都会の自分たちとは戸籍の違う学生たちに発砲したのは、それから程なくしての頃だと言います。
そして、戦車は、道端に倒れた学生たちを無慈悲に轢いていったのです。
人間の肉体が一枚の紙切れのようになった、そんな写真を見たことがあります。
嘘だろうって、そう思いながら……。
もし、あの時、中国の指導部が、学生たちの意見を受け止め、「民主化」がなされていたらどうなっていたのだろうかと、考える時があります。
そうなれば、今、世界に大きな影響を及ぼしている貿易戦争などなかったに違いないって。
南シナ海のフィリピンが領有を宣言する島に軍を派遣して、そこにいたフィリピン軍を全滅させ、島を奪取することもなかったに違いないって。
日本の尖閣に、執拗に公船を派遣して嫌がらせをするようなこともなかったに違いないって。
中国にとって、好ましからざることをするからと言って、その国に観光客を送ることをやめて、その国の経済を混乱に導くことも、レアアースを輸出をとめることも、サーモンやバナナをその国から輸入することを禁止することもなかったに違いあるまいと、そう思うのです。
中国は、世界から最も信頼を受ける国家として、世界の人々の尊敬を集めていただろうと、そんなことを思うのです。
世界の四大文明は、過去のものとして認識されていますが、その一つの文明を築き上げた国家が、現代においても、世界をリードする国家として、不死鳥のように蘇ったと世界は賞賛を惜しまなかったに違いないと、そう思っているのです。
一帯一路なんて、美麗な四字熟語を創り出して、あこぎな真似をしなくても、隣国のスクラップになった空母を買って、張子の虎のように振る舞わなくても、中国は経済と彼らが自らの意思で手にした民主化のおかげで、世界の尊敬を集めたに違いないのです。
だって、今、中国で作られた製品の質の向上には目を見張るものがあるんです。
それがどんな形であれ、たとえ、盗んできてものであっても、彼らの作る製品の品質は確かに向上をしているのです。
一昔前、中国製だから仕方がないと言う時代がありましたが、それはもはや過去のものとなっているのです。
日本の企業から生産性向上を学び、アメリカの企業から最先端技術の応用を学び、今や、中国で作られる製品の品質は、相当なレベルに達しているのです。
きっと、食料品だって、近い将来、日本の高い安全性のレベルに追いつくはずで、中国製だからこそ安心だと言うん時代がきっと来るとさえ思っているのです。
しかし、三十年前、中国政府は、大きな過ちを犯しました。
それを、ワン・ジェネレーションもの間、認めてこなかったのです。そして、さらに、その年月を長引かそうとしています。
人は、嘘をつくと、その嘘がバレないように、さらに、嘘を糊塗します。
嘘に嘘を上塗りして、ばれないようにしていくのです。
そして、その嘘によって、にっちもさっちも行かなくなっていくのです。
嘘を守り通すには、それなりの無理が生じます。
南シナ海に作った人工島は、すべての船の安全のためという主張は、程なく、自国領を守るために防衛するのは当たり前だと変わります。
挙句に、アメリカ軍の自由航行作戦に対して、自分たちのやっていることを棚に上げて、対抗意識をむき出しにしてくるのです。
経済が好調だからと威張るのは、愚の骨頂、それより、偉大な中国文明の、偉大な文化を作り上げた民族の誉こそ、世界が驚嘆し、畏敬し、中国なるものに愛着を感じる、最大にして、最高のものなのだと知らなくてはならないのですよって、言いたいのです。
世界をご覧なさい。
学生たちが、時の政権を批判するのは、当たり前のことです。
政権が、若者たちの暴走を、そこそこに弾圧をするのもまた、当たり前のことです。
アメリカも、ヨーロッパも、日本も、そうした時代を経てきたのです。
その時、時の政権に反抗した青年たちの多くは、今、その国の中枢で、あるいは、民間で、懸命に国のために、世界のために働いているのです。
でも、三十年前の六月四日から、このかた、中国は、そうした青年たちの力を活用していません。
他国に渡り、そこで技術を修得し、戻ってきて、それを国家のために役立てさせる。
自国の儲けこそ第一と、なりふり構わぬやりように、世界は呆れています。
その独善的なる主張に、世界は嫌気をさしているのです。
でも、中国人は本質的に偉大な人々です。
だって、始皇帝がいて、梁山泊の英雄をいて、詩人毛沢東がいた国です。
漢字を作り出し、羅針盤を作り、火薬を作った人民がいた国です。
だから、近い将来、きっと、中国は変化すると、私たち、世界人民は最後の期待をしているのです。
六月四日、あの時、北京大学に留学して、今、日本の大学で教鞭をとる友人に電話をしました。
そうか、あれから、三十年かって、感慨深げに語っていました。
彼、もう、退官して、同級生であった奥さんと二人、気持ちよく老いていると、笑って語っていました。
何よりだと、私、そう思ったのです。
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