通勤途中と通学途中

杜社

第1話 ポケットティッシュ

毎朝、通勤時に駅に向かう途中、高校の前を通る。

ちょうど通学時間帯と重なるので、ぞろぞろと群れて歩く生徒が多く、何かと騒々しくてウンザリするのだけど、駅への近道だからコースを変えたりはしなかった。

自分が高校を卒業してから十年経ったということに思い至れば、校門前を横切るときに多少は感傷めいたものが心に生じないわけでもないが、毎朝そんな思いに浸っていたら身が持たない。


「おじさん」

そう呼ばれて、自分のことだと気付くまで、少し時間を要した。

高校を通り過ぎて、駅まであと五分ほどのところ、住宅よりも、商店が目立ち出した辺り。

高校生の姿はちらほら見かける程度になり、駅へ向かうスーツ姿の方が多い街の一画。

「おじさんってば」

まだ辛うじて二十代である俺にとって、おじさんという呼称は、それほど馴染み深いものでは無い。

けれど目の前にいる女子高生は、明らかに俺を見て「おじさん」と言っている。

ショックと腹立ちが綯い交ぜになりながらも、俺はその女子高生の不自然な姿に気付く。

何故か両手を中途半端な位置に垂らし、少し困ったようなぎこちない表情をしていた。

カテゴライズするなら、黒髪清楚系。

ネットの情報を鵜呑みにするなら、最も信用出来ないタイプである。

女子が思うカワイイ、ではなく、男の好みを熟知した上での装い。

「えっと、何か?」

俺は警戒しつつ返事をした。

正直なところ、その子は特に目を引く容姿では無かったし、どちらかと言えば地味系に属する方だと言えた。

俺は少し警戒レベルを下げた。

単純に何か困ったことがあるのかも知れない。

「スカートのポケットにティッシュが入ってるから、取ってくれない?」

は?

俺の思考は、しばし停止した。

そもそも、スカートにポケットなんてあったんですか?

俺の女子に対する知識は壊滅的で、今の職場だって社長と俺の二人きりだ。

高校も大学も、女子とは無縁だったのだから仕方ない。

「さっきそこで野良猫とじゃれてたら、手におしっこかけられたんだよね。だから両手が使えないの」

地味系の割には物怖じしない喋り方をする。

ね、お願い、というアピールなのか、片眼を閉じて首を傾げる仕草には、随分と男慣れしたものも感じる。

と言うか、地味系ではあるが、これは男好きのするタイプと言えるのではないだろうか。

俺は警戒レベルを再び上げた。

スカートは長くも無ければ短くも無い。

けれどそこから覗く脚は、綺麗と言って差し支えないものだった。

「えっと、右側だから」

黒髪清楚系地味系男好きのする女子高生は、そう言って右側の腰を俺の方へと突き出す。

脚は細いが、腰は豊かに見えた。

ついでに、夏服になって間もない胸元に目を向ければ……随分と貧弱だった。

ったく、なんてこった。

ドストライクだ。

俺は警戒レベルを更に上げた。

「早くしてくれないと、猫のおしっこまみれの手で、そのスーツ掴んじゃうけど?」

今の俺に、スーツを新調する余裕は無い。

いや、それどころか冷静な判断をする余裕すら無い。

「ほら、早く」

急かされて、俺はその女子高生のスカートに手を伸ばした。

有り勝ちなチェックのプリーツスカートなのに、触れることは無縁な存在。

ていうか、ポケットどこ?

軽く生地に触れているだけなのに、何故かその奥にある柔らかさが伝わってくるみたいでドキドキする。

「おじさん、そこじゃないって。ちょ、んっ」

色っぽい声を出すな。

「そこ、その襞を広げた奥」

「……」

襞を広げた奥に、俺は今、手を差し入れようとしているのか!?

俺の指が、その襞の間にゆっくりと──

「はい事案発生」

「おい!」

悪戯っぽく放たれた言葉に、俺は咄嗟に手を引いた。

「嘘だって。ていうか、おじさんビビり過ぎだし」

地味系女子は、笑うとあどけなかった。

どうしてだか判らないが、俺はそのあどけなさを大切にしたいと思った。

「ほら、使え」

俺は自分の鞄の中にポケットティッシュが入っていることを思い出して、それを取り出した。

何となく不服そうな顔をした少女は、俺の手からティッシュを受け取ると、

「ま、いいか」

と呟く。

「じゃ、電車に遅れるから」

「あ、おじさん」

「何だ?」

「ありがと。それから──」

「?」

「毎朝擦れ違ってるの、知らないでしょ? ちゃんと顔を上げて歩いた方がいいよ。じゃあね!」

……。

そっか、俺はいつも俯いて歩いてたのか。

からかわれただけかも知れないが、忠告が胸に沁みた。

でも何故か、少しばかり歩調は軽くなっている。

今日一日は、何だか頑張れそうだ。

ただ、会社は遅刻したけど……。


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