黒白の少女と終わる世界
アクレ
プロローグ 生きる理由
走っていた。背後から確実に迫る「死」から逃れるために。
こうやって逃げるのはもう何回目だろう、と少女は思った。
右へ、左へ。ビルとビルの間の狭い路地を走り抜けていく。
雨が上がったばかりの空は鉛のように重苦しく、晴れ間が見えそうな気配はない。
まだ昼過ぎだというのに、ここは夜みたいに薄暗かった。
時折現れる崩壊したビルや崩落した地面。
まるで迷宮だ。
今、自分がどこを走っているかなんて気にしていられない。
とにかく逃げないと。
背後から「あれ」の声がした。
癇に障る気味が悪い声。
少女は結構走ったつもりだったが、まだ声は聞こえている。
「あれ」は足が遅い。だから運動が苦手な少女でも毎回撒くことができていた。
そこら中にある瓦礫のせいで走りにくいけれど、追いつかれるほどじゃない。
まして、この迷宮のような路地だ。
千里眼か何かを持っていない限り、すぐに見失ってしまうだろう。
しかし、今回はそう簡単にはいかないようだった。
「嘘でしょ……」
いつの間にか、少女の目の前には見上げるほどの高い壁がそびえていた。目測で十メートル以上はある。三階建てのビルより高い。
「ユリナなら飛び越えられるんだろうな、こんな壁」と少女が呟く。
何メートルの段差をも軽々と飛び越えられる反重力シューズ。
ユリナったら、少しくらい貸してくれたっていいのに。
これはあたしだけのものだから、なんて。
「まぁ、今考えてもしょうがないか」
早く戻って別の道を探そう、少女がそう思ったときだった。
ビシャ、ビシャ、と水たまりが跳ねる音が聞こえた。
それは、明らかに普通の人間が出すような音ではなかった。
まさか……この路地に入ってから結構走ったはず。
ここまで入り組んでいれば追い付かれにくい、いや、絶対追い付かれないと思ってたのに。
困惑しつつも、少女は音の方に視線を向ける。
見えたのは、優に二メートルを超える体躯を持った巨人。だが、明らかに人間ではなかった。
まず、人間で言う眼窩の部分に眼球がない。暗く、深い穴が空いているだけだ。
さらに、全身の大部分の皮膚がアルビノのように真っ白。異常な大きさに発達している両腕はそれとは対照的にどす黒い。まさに怪物という表現がふさわしかった。
少女の顔が引きつる。今までこうやってまじまじと「あれ」を見ることはなかった。見たくなかった。見たら足がすくんでしまいそうだから。
少女は震えだす足を一歩、一歩、後ろに進める。
壁にぶつかる。コンクリートのひんやりとした冷たさが手から伝わってくる。
こんなことになるならユリナと二人で来ればよかった。一人で知らない場所まで探索に来たのが間違いだったんだ。
少女の心が後悔の念に苛まれると同時に、耐え難い恐怖の感情で包まれていく。
巨大な口を開き、「あれ」がこの世のものとは思えない唸り声を上げた。
過剰なほどにびっしりと生え揃った牙。
まだ十代半ばのか弱い少女を怖気付かせるには十分すぎた。
少女の体は硬直し、もはや動かすことは叶わない。
ここでわたしは死ぬんだ。
覚悟していたことが、現実になろうとしている。
一歩、一歩、ゆっくりと獲物を追い詰める狩人のように、「あれ」は迫ってくる。
手を伸ばせば届いてしまうような、そんな距離まで迫っていた。
その瞬間だった。
けたたましい銃声。
それとともに世界が真紅で染まった。
驚いた少女が顔を上げると、「あれ」の頭部が弾けていた。
今まで嗅いだことのないような悪臭がした。
巨体が音を立てて崩れ落ちる。
「えっ」
少女が状況を飲みこむのには時間がかかった。
死んだ……? どうして……?
さっきまで動いていた「あれ」は、今、確かに骸となって少女の足元に転がっている。
首元から流れ出す血液は留まるところを知らず、血の海を形作っていく。
「君! 大丈夫かい?」
少女が顔を上げると、そこには散弾銃を構えた人の姿が見えた。
「大丈夫かい? 怪我は?」
男性の声がする。手を差し伸べているようだ。
返事をしなきゃ、少女はそう思ったが、口ごもってしまった。
「だ、だっ、大丈夫です」そう言いながら、男性の手を取る。
温かい。そして柔らかい。
少女は自分の緊張が少し和らぐのを感じた。
「危ないところだったね」
「は、はい。ありがとうございました」
少女は深々と頭を下げる。血で濡れた髪の毛が頬を伝った。
少女の髪は元々白色なのだが、今は赤く染まってしまっている。
「セレクターの奴らめ……倒しても倒しても出てくるな」
男性は、血溜まりに沈む肉塊と化した「あれ」を見つめながら言った。
セレクター。「あれ」の本当の名前だ。
この世界を蠢く怪物。どこからともなく現れ、人類を襲い始めた。
人間の頭を容易く砕いてしまうほどの怪力、並の重火器では傷つけられない強靭な肉体、そして異様なほどの生命力。
人類はいとも容易く蹂躙されていった。
程なく、政府はセレクターが最初に現れたこの場所を封鎖することを決定。
周囲を取り囲むように巨大な壁が作られ、外界とは完全に隔絶された。
少女たちは、そんな壁の中で生きている。
二人は路地から出た広い通りに移動していた。
男性はこのあたりの地理を熟知しているようで、全く迷うことはなかった。
「そういえば、君、名前は?」
瓦礫に腰掛けた男性が口を開いた。
「ユイです」
男性に渡されたタオルで顔を拭きながら、少女――ユイは答える。
「私はタサキ。この地区で自警団をやっている」
「自警団……ですか」
「ああ。といっても、大層なものじゃないけどね」
男性――タサキは手元の散弾銃に視線を落とす。
「武器や食料、情報を何人かで集めて、共有する。さっきみたいに襲われている人がいたら、助けて話を聞く。この世界で生きる上で情報は最も重要だからね」
とても合理的だ、とユイは思った。
壁の中の資源は限られている。だから、効率的にそれらを見つけ出して確保する必要があった。
セレクターに関する情報も重要だ。セレクターたちは常に一ヶ所に留まっているわけではなく、定期的に移動を繰り返している。生き残る確率を上げるためには、セレクターが少ない場所を見つけなければならない。
「そういう訳で、君からも何か情報提供を願いたいんだけど……って、イテテ」
タサキは腕を抑える。どうやら出血しているらしい。
「大丈夫ですか?」
ユイは鞄から救急セットを取り出してタサキに駆け寄った。
「いやー、さっきガラス片で切ってしまってね。あまり深い傷ではないと思うんだけど」
「手当てしますよ」
傷口を見る。よくある切り傷みたいだ。
ユイは水筒の水で傷口を洗い流し、被覆材を貼った。
傷はそこまで大きくない。これくらいでとりあえずは大丈夫なはずだ。
「ずいぶんと手慣れているんだね」
「わたしにはこれくらいの事しかできないので」
そう。わたしにはこれくらいしかできない。
さっきみたいに銃を使ってセレクターを吹き飛ばしたりとか、走り回って情報を集めたりだとか、そういったことはわたしには無理だ。
だから……だから、せめて傷の手当てくらいはできなくちゃいけない。
それが、わたしが人の役に立てる唯一のことだから。
でも、世界はそれすら許してくれないらしい。
突然、タサキの背後にセレクターが降り立った。
最初に気付いたのはユイだった。
「タサキさん、後ろ!」
「なっ……!」
声を上げた時にはもう遅すぎた。
降り立ったセレクターが獣のように呻く。
次の瞬間、タサキの頭は噛みちぎられていた。
糸が切れたかのようにタサキの体が倒れる。
首元から流れ出す鮮血。
見る見るうちに広がっていく血の海。
ユイはまた動けなくなった。
すぐ近くで気味の悪い咀嚼音がした。こんな音聞きたくなかったのに。
「そんな……」ユイは呟く。
まただ……、また、わたしの助けた人が死んだ。
受け入れがたい現実に押し潰されそうだった。
このまま何もできなくなってしまいそうだった。
でも、それは許されない。
助けてもらった命を無駄にはできない。
逃げなきゃ。
震える足に力を込める。
ユイはセレクターに背を向けて走り出した。
転びそうになりながらも、必死に歩を進める。
咀嚼音が少しずつ小さくなっていく。
瓦礫を飛び越え、倒れた電信柱をくぐる。
橋を駆け抜け、歩道橋を渡る。
音が全く聞こえなくなり、セレクターの気配が無くなる頃には、辺りは見慣れた景色になっていた。
走っている途中で雨が降り出した。
冷たく降り注ぐ雨。
所々アスファルトが剥げた地面が、瞬く間に濡らされていく。
この世界はとにかく酷薄で、少しの慈悲も持ち合わせていないらしい。
ユイは走りながら泣きそうになっていた。
それでも、歩みを止めることはなかった。真っ直ぐ進んでいた。
こんな世界にも、わたしが生きる理由があるから。
ユイたちが住むA地区。その入口まで戻ってきていた。
大きく湾曲するかつての首都高速道路。
それとは反対向きに曲がっていく鉄道の高架の残骸。
アスファルトを突き破るようにして生えている植物たち。
二人が住処にしている地下鉄駅までもうすぐだ。
息が完全に切れたユイはその場で立ち止まった。
その時だった。
「ユイ!」
聞き覚えのある声がした。
ユイは声がした方に顔を向ける。
交差点の端の瓦礫の上、そこにフードを被った少女の姿が見えた。
長い黒髪に透き通るような瑠璃色の瞳。
首に巻いたストールに黒のプリーツスカート。
手に携えた拳銃と、背中に背負った狙撃銃。
そして、反重力シューズ。
間違いない。
「ユリナだ……!」
ユイは再び走り出した。
彼女が生きる理由に向かって。
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