26 感情
○
暖かい感覚が心を満たしている。
ずっとぬるま湯に浸っているような、それとも心地よい日差しの下でぼうっとしているような。そんな、感覚だった。
スピカ・ベルベットは、目の前に居る男の背中をぼんやり見つめる。その後、自身の体へと視線を落とす。
着心地の良い、服。新しい、服。
購入する際にサンはこう言っていた。
「スピカを拾った者としての最低限の責任の一つだ。むしろスピカはもっとわがままを言ったほうがいい。俺の精神安定的に」
そうとぼけたサンの笑みは簡単に思い出すことが出来た。
恐らく私が気後れしないように気を使ったのだろう。スピカはそう思い、どうしようもないほどに強い感情が体を支配する。
その色は黒く、ヘドロのようににごりきっている。醜い自己嫌悪の色だった。
「……私は。隠し事を、している」
誰にも届ける気のない呟きが漏れた。軒下の雑踏に揉まれて、言葉は溶けて消える。
彼はどうしようもないほどに良い人だ。頭ではわかっているのだけど、だからこそ、口を吐くのはため息にもならない吐息ばかりだった。
仲良くなればなるほど言葉を口にすることが……辛い。何もかもを吐き出したい、でも、言いたくない。
矛盾した気持ちはどんどん膨れ上がり、今にもスピカを押しつぶしそうなほど大きくなっていた。
彼ならばちゃんと話を聞いてくれるだろう。全てを漏らすことなく、掬い上げて、丁寧に聞いてくれるはずだ。
――じゃあ。その後は。
彼に否定されることが、どうしようもなく、怖い。
……否定されるだけならば、まだいいのだ。サンが豹変したらどうしよう。里を襲った人間と同じになってしまったら、どうすればいいのだろう。
もし。もし。もし。
もしかしたらという考えが幾重にも重なり、体が小さく震える。
踏み入ってこないのは、楽。本当に、楽。その気遣いには救われた。
……このままサンの優しさに縋って、楽なほうに流されればいいじゃないか。スピカの頭の中で、弱い彼女が囁く。
その考えは、礼には礼を。恩には恩を。そう教わってきた彼女の人生全てを裏切るものだ。
スピカの足が止まる。
唇をきゅっと噛み、目を瞑る。
「……どうした? あー、人間が居る場所ばっかりだもんな、疲れたちゃったか」
彼は、様子のおかしいスピカに簡単に気がついてみせる。
違う。首を振ってフード越しに否定の意思を伝えると、サンはちらりと空を仰ぎ見る。
「……そうか。そうだな、以前来たときに人の来なそうな場所を見つけたんだ。ちょっと歩くけど、そこに行こうか」
そう言うや否や、サンは店の店の隙間に入ってすいすいと歩き始める。不思議と人の少ない通りばかりで、彼はこういう少し浮いた場所を探すのが得意なのだなと思った。
灰色の外套を翻して、灰色の石で出来た道の中を進んで行くサンの背中は、どこか現実味がなくて。
”――おにーさん、さ。なーんか頼りないんだよね。”
ふ、と。ヤコが口にした言葉を思い出す。サンが飲み所に行っている間に交わした会話だった。
スピカが否定と文句をこめた唸り声を上げると、ヤコは慌てて否定する。
「ふらふらと飛んで行きそうというか、地に足つけていないというか。そういう意味! 初めて見たとき、寂しそうな人だなって思った」
……ピンと来ない例えだ。ヤコは悪口で言ったつもりではないらしい。その証拠に、ヤコの表情は心配といった様子で歪んでいる。
彼女は大げさにうんうん頷くと、さらに言葉を重ねる。
「でも、スピカちゃんと二人で再び会ったとき、少しは落ち着いていたんだよね。それを見てこの人は大丈夫だと思った」
にこーっと笑みを浮かべると、スピカに指を突きつけて、言う。
「そりゃそうだよね! 可愛い女の子が一緒に居るんだ、少しは落ち着かないと! ……でも、そのスピカちゃんが色々複雑な感じだ」
ぺちりと肩を叩かれる。
「おにーさんに見せまいとしているのはわかるけど、そういうのって、外から見たら丸わかりだよ。……そうね」
ヤコは人差し指をピンと立てると、指先をくるくると回し、言葉をまとめているようだった。
「スピカちゃん、もっと重い女になればいいんじゃない?」
「なっ」
いきなり何を言うのだ、この狐耳は。
ヤコは言いたい事は言ったと満足げに頷いている。
……この後はどんどん話がそれて、雑多な会話をしていったのだが。
その言葉を聞いたとき、自分はどう思ったのだろうか。ただでさえ迷惑をかけているのだから、これ以上負担を掛けられないと否定したのか。それとも、少しは受け入れようと思ったのだったか。ほんの一日前の出来事だというのに、まるで別人の感情を推し量るみたいだ。
たった一日だというのに、色々なことがあった。サンが出かけた後に一人で外を見ていたら、外を走る彼の姿があったこと。その後に二人で屋根に登ったこと。
……あんな事、するつもりはなかった。甘えるのではなく、寄りかかって、あんな。
サンの顔を見ていると、どうしても歯止めが利かなくなって、思っていた気持ちを吐露してしまった。
そこからだ。
自分の気持ちだというのに、感情を落ち着けることが出来ない。
信じたい。怖い。聞いて欲しい。言いたくない。ごちゃごちゃと何もかもが混ざって、頭の内側でガンガンと叫ぶのだ。
先を歩くサンが振り返る。スピカと目が合うと、小さく笑う。
……かっと、感情が走った。それはスピカの胸中を漂う黒い感情を瞬間的に消し去って、居心地のよい安堵感で満たす。
泣きたくなるほどに、今のスピカには残酷な感情だった。
……キャスケット帽のせいで顔が上手く隠れてくれない。こんな表情を見せるつもりはなかったのに。
彼は何も言わない。
そして、更にほんの少し歩いた先に――。
赤錆が浮いた金属製の柵と、半分倒壊した廃墟にはさまれるように、小さな枯れた噴水が佇んでいる。
横には葉々が積もる古いベンチがあった。
サンは手で葉っぱを払いのけるとスピカに座るように促した。その眼差しは、どこまでも優しい。
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溜め回。次話は極力早く更新します。
今日は時間がないので、水曜日に更新できれば。遅くても木曜日には…!
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