56.真実は最後に残ったもの。

10月18日(Tue)午前9時


 今までそこに居た誰かが居なくなれば別の誰かが空席に座る。それが世のことわり

風見新社の社会部では逝去した国井元副編集長の後任で新しい副編集長が就任した。新しい副編集長は田辺編集長のお気に入り、つまり田辺軍団の取り巻きのひとりだ。


前任の国井と田辺編集長は何かと対立していたが副編集長が自分の取り巻きとなればこれで完全に田辺の天下だと部署内で冷ややかに囁かれている。


 西崎沙耶は新副編集長の就任の挨拶を聞き流して、昨晩の早河探偵からの状況報告の電話の内容を頭の中で反芻していた。


赤木が10年前の佐久間夫妻殺害の重要参考人として手配されたこと、芽依が両親の殺害を認めたこと。

現段階では重要参考人のため、赤木の手配は世間に公表はされていない。早河は警察に強いコネクションがあるらしく、これらの情報も警察のコネから得たようだ。


芽依が殺人に関与していた事実は沙耶の気分を重くさせる。妹のように可愛がっていたあの子がどんな苦しみを味わい、凶行に至ったか考えるだけで胸が痛む。


 副編集長の挨拶が終わると沙耶は田辺編集長に呼び出された。担当コラムの記事は仕上がっているし他にミスをやらかした記憶もない。

編集長に呼び出しを受ける理由がわからず、沙耶は恐々と編集長のデスクの前に立った。


『再来月号にお前の枠をひとつとってある』

「コラムではなく……?」

『そうだ。見開き2ページ、試しに3ヶ月連載にでもしようと思ってる』

「ありがとうございます!」


社会部に来て2年、ようやく書きたい記事が書ける機会が巡ってきた。


『記事のテーマでやりたいものはあるか? なければ俺の方で考えるが』

「ネグレクト……育児放棄の記事はいかかでしょう?」

『確かに育児放棄は最近の社会問題になってるな』

「育児放棄は子どもの人生を大きく変えてしまいます。家庭内の問題でもあり、周りも気付きにくい。読んだ人が子どもや育児放棄をしてる親のSOSのサインに少しでも気付けるような記事を書きたいと思っています」


 沙耶の熱意がどこまで伝わったか定かではないが編集長は沙耶のテーマにOKを出した。彼女はさっそくネグレクト関連の取材日程を組む。関連書籍の閲覧や行政団体への取材申し込みなど記事を書く前にやらなければならないことが山積みだ。


 10年前に見逃してしまった小さなサイン。気付けたかもしれない佐久間芽依の悲しみのSOSを10年前の沙耶は見逃していた。

これは10年前の佐久間芽依と10年後の清宮芽依への償い。

記者の自分にしかできないことを、西崎沙耶だからできることをやると決めた。


二度と、悲しみの子どもを産み出さないためにも。


        *


 火曜日の午後になっても赤木奏の行方は知れず、彼の祖母の家がある栃木県にも赤木が現れた気配はなかった。

早河探偵事務所が夕焼け色に染まる。事務所を訪れた矢野一輝はブラインドが上げられた西向きの窓の枠にもたれた。


『母親は赤木が7つの時に蒸発、酒飲みの父親は頻繁に赤木や母親にDVをしていたそうです。母親がいなくなった後、赤木は父親の虐待を受けて育つ。小学校から児童相談所に虐待の通報が何度かあったらしいですが、赤木が8歳の冬に住んでたアパートの火事で父親が死亡。火事の原因は父親の煙草の不始末……』


警察が掴んだ赤木の情報を矢野も入手していた。彼はタブレット端末に表示された赤木の情報を読み上げて早河に聞かせる。


『生き残った赤木は栃木の祖母の家に引き取られた。なかなかハードな経歴ですよね』

『赤木は芽依に昔の自分を重ねて見ていたのかもな。虐待されていた自分を育児放棄されている芽依に重ね合わせていたから芽依の苦しみが他人事に思えなかった。だから芽依に加担した』


 早河仁は二人分のコーヒーをカップに注いでひとつを矢野に渡す。室内にコーヒーの香りが濃く漂った。


『今回の一件で親になるのが怖くなりましたよ』


早河が淹れたコーヒーをすすって矢野が心情を吐露する。来年の初めに矢野と真紀の間に誕生する新しい命との対面が楽しみでもあり、生まれてしまえば逃れられない“親”の責任に少しだけ怖じ気づく。


『虐待のニュースを聞くと、大抵の親はしつけだと思ってやっていたって言うじゃないですか。それって言い訳だと思っていたけど実はそうじゃないのかもなって。親は本当にそれがしつけだと思い込んでやっているケースも多いのかもしれません』

『虐待としつけの境界線は紙一重だ。越えてはいけないものを越えた時、それはしつけではなく虐待になる』


窓から差し込む夕陽が眩しくて早河は目を細めた。デスクに飾られた写真立てには愛する妻と娘の写真が入り、彼は赤い光の中で写真を見つめる。


『親はしつけと思っていても度を越えた叱責は子どもの心を傷付ける。子どもの心と身体を傷付けた時にしつけを越えた虐待に変わってしまうのかもしれない』


 赤ん坊のうちはまだいいが、日々成長し続ける愛娘を叱責する日が必ず来る。その時に感情的にならずに子どもを正しい道へ導けるか早河も自信はない。


 そもそも“正しい”とは何?

大人でさえ何が正しいのかわからなくなるのに、子どもに“正しさ”を教えられるだろうか。

大人だって間違いを犯す。芽依の両親も赤木の両親も間違えていた。


『親になるのが怖くない人間はいない。親になることは自分以外の人間の人生の責任を一定期間負うことだ。誰だって最初から自信はないし誰だって怖いに決まってる。俺も毎日怖いさ』


これから親になる矢野に先に親となった早河が言える唯一のこと。後は本人とその家族次第だ。

早河の想いを受け取った矢野は頷いた。


誰もが不安で誰もが手探り。子を持つとは子どもの人生の責任を持つことと同義なのだ。


『国井が西崎沙耶に言ったドッペルゲンガーって誰のことだと思う?』


 早河が話題を変えた。風見新社のジャーナリスト、国井龍一殺害事件の捜査は継続しているものの、容疑者として疑わしい人間は浮上していない。


ブラックジャーナリストとして有名だった国井を恨む人間は多数いるが、事件前の国井の言動や殺害状況から個人的な怨恨の線は薄いと判断された。

手掛かりとなるのは国井が沙耶に語ったドッペルゲンガーの意味。


『国井が浅丘美月とカオスを調べていたのならドッペルゲンガーってのもカオスに関係した誰かさんの比喩ってところでしょうか』

『ドッペルゲンガーの正体は三浦英司……いや……もしかすると佐藤瞬か』

『でも佐藤は5年前に……』


5年前に死んだ男の名に矢野が戸惑う。早河はコーヒーが冷めないうちに一気に飲み干した。

視線の先には真っ赤な太陽がビルとビルの間から顔を覗かせている。

2年前の犯罪組織カオス壊滅から早河の心に現れた不明瞭な直感は今もくすぶり続けていた。


『なぁ矢野。もしも佐藤瞬が生きているとすれば、この件はこれ以上深入りしない方がいいのかもしれない』

『早河さんらしくないこと言いますね』

『俺らしくない……そうだな。ただ、佐藤が生きているなら誰に一番影響があるのかってことを考えちまったんだ』


佐藤瞬の生存によって影響がある人物はたったひとり。


『浅丘美月のことですか?』

『ああ。たとえ真実だったとしても彼女が知らない方がいいのか知った方がいいのか。俺達が決めることじゃないしな』


 真実とはなんだろう。知らなければいけない真実があるのなら、知らない方が幸せな真実もきっとある。


この不明瞭な直感の真実は絶望の真実? それとも希望の真実?

どちらだろう?

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