12.アフロディーテ
居酒屋の賑わいの中で西崎沙耶はテーブルに顔を伏せた。沙耶の向かい側にはビールを呷る国井副編集長がいる。
『それで自信失くして帰って来たのか。情けねぇな。まだ取材初日だろ』
「だって……私がしようとしてることは誰も幸せにならないことなんだって思うと、なんだか……」
『ジャーナリストやるからには覚悟を決めろ。こんなことでいちいち気落ちしてちゃ、続かないぞ』
みどり園からの帰り道に国井に取材経過の報告の連絡を入れ、その際に少しばかり弱音を吐いてしまった。
国井と会う予定ではなかったが、沙耶を元気づけようと飲みに誘ってくれた彼の心遣いは素直に有り難く思う。
居酒屋を出て大通りに通じる道を歩く。10月中旬の夜風が冷たく肌に触れた。
居酒屋に居たときは饒舌だった国井は無言で沙耶の一歩前を歩いている。
「話聞いていただいてありがとうございました。私、自分でタクシー拾いますから……」
急に国井に腕を掴まれて人のいない路地裏に連れて行かれた。拒む余裕もなく、引き寄せられ、ふたつの唇が接触する。
『落ち込んでる部下を慰めるのも上司の仕事』
「慰めるって……こんなこと……」
『嫌?』
耳元に国井の吐息を感じてゾクゾクとした快感が沙耶の全身に伝わる。久しぶりの快感だった。彼と触れ合う身体も熱を持ち始めている。
沙耶の身体は男を求めていた。
「嫌……じゃないです」
『よし。いい子だ。……沙耶』
もう一度、彼とキスをした。さっきよりも深く、熱く、永く。舌と舌が絡まり合って吸われて吸って、互いの熱で身体中が熱い。
腰やヒップラインをなぞる国井の手つきにまたゾクゾクした快感が昇る。ここから先はお楽しみと言うように、国井は沙耶を焦らして寸止めを繰り返す。
キスと抱擁を重ねて路地裏を出た二人は何も言わずにタクシーに乗り込んだ。
きっともう戻れない。真実を追い求めることも危険な火遊びの関係も、一度足を踏み入れてしまえば終わりだ。
沙耶と国井を乗せたタクシーは夜の繁華街に消え失せた。
*
シックな内装のこのホテルの名前が〈アフロディーテ〉であることに沙耶はいまいち納得がいかなかった。
昨今ではこういったホテルの内装も華美な装飾は衰退して都心の高級ホテルのようなシンプルかつ洗練された雰囲気に変わりつつある。けれども、どれだけ内装を今時の流行りに変えたとしてもホテルの名前が
沙耶の肩を抱く国井の左手薬指には銀色の結婚指輪が嵌まる。どうしてこんなことになってしまったのか、すえた男と女の匂いが充満する室内で彼女は何度目かの後悔の溜息を吐いた。
国井は携帯電話でメールを打っている。国井の携帯電話はスマートフォンと呼ばれるタッチパネル式の最新の携帯電話だ。
『よし。これでいいだろう』
上機嫌に口笛を吹いて彼はスマホをサイドテーブルに置いた。
「アリバイ工作ですか?」
『何言ってんだ。清宮芽依が卒業した高校を当たって、今どこの大学に行ってるのか割り出すんだ。そういうことを探るのが得意な奴に頼みのメールを打ってたんだよ』
冗談を装った沙耶の皮肉も国井には通じない。
『園長から聞き出せたのが卒業した高校だけだからな。まずは清宮芽依の現在の生活を調べる』
機嫌の良い国井とは反対に沙耶は一気に気分が滅入ってきた。園長との対面で事件の真相を追及すべきではないと思えてきたのだ。
真実を知りたい想いと真実が誰かを傷付けることになるかもしれないという恐れ。その誰かが昔一緒に遊んだ女の子となれば……。
『そんな浮かない顔してるとせっかくの可愛い顔が台無しだぞ』
国井が沙耶の顎を持ち上げる。煙草臭い息が顔にかかった。
ニヤリと笑う国井の乾燥した唇がついさっきまで自分の全身を這っていた。顎を持ち上げるこの指に、奥まで犯されて狂わされた。
「いつもこうやって女を口説いているんですね」
『好みの女限定でな』
「私は好みだったってことですか?」
『ああ。一目惚れだ』
拒めないキスをされて沙耶は彼の身体に手を回す。二人はベッドに倒れ込んだ。
沙耶の中は国井を容易に受け入れ、そうしてまた一時の欲にまみれて呑まれて支配される。
真実を追求することを止められないのはジャーナリストの
彼女の口から甘ったるい声が漏れ出すと同時にベッドが軋んだ。
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