1.秋の歌

2011年10月7日(Fri)午後6時


 田園都市線、三軒茶屋駅から徒歩5分の場所にあるヒグマ書店は今日も穏やかな時間が流れている。


新書を見ている仕事帰りのスーツの男性、ファッション雑誌を立ち読みするお洒落な女性、参考書選びに熱心な中学生、設置されたソファーで母親と一緒に絵本を読む子ども……皆が思い思いに本屋での一時を楽しんでいた。


 店内に流れるBGMに店員の清宮芽依は手を止めた。物悲しいメロディにのせて響くソプラノとアルトの歌声。

小学生の昼休みに、秋になると必ずこの歌が流れていたのを覚えている。


芽依はサトウハチロー作詞の童謡、【ちいさい秋みつけた】の歌詞を心の中で口ずさんだ。今年もこの季節がやって来た。


 この歌を聴くとどうしても思い出してしまう風景がある。10年前のこと、あの人のこと、赤い太陽、赤い落ち葉、赤い水溜まり……。


『清宮さんどうした?』


左側から男性の声が聞こえて芽依は伏せていた顔を上げる。同僚の小池将太が色ペンと折り紙を入れたカゴを抱えて隣に立っていた。


『なんだかボーっとして……体調悪い?』

「大丈夫です。それ、ポップ用ですか?」

『そうだよ。児童書コーナーのポップを秋仕様にしたいと思って。清宮さんやってみる?』


小池は作業机の上に店頭に飾るポップ用のペンや紙、折り紙を広げた。


「いいんですか?」

『うん。この前、清宮さんが書いてくれた新刊のポップがお客さんに評判良かったんだ。清宮さん字も綺麗だけど絵も上手いよね。店長が感心してたよ』

「字は小学生の頃に書道を習っていたので……」


 レジ業務を小池と交代して芽依は作業机の前に立つ。

芽依は今年の春からヒグマ書店でアルバイトを始めた。勤めて半年の新人だが、少しずつポップ作りや他の仕事も任せてもらえるようになった。

今から制作するのは児童書用のポップ。子ども達の興味を惹くポップを作らなければいけない。


『じゃあ絵は? 絵画教室に通っていたとか?』

「絵は……自己流です」


 言葉を濁して赤色の折り紙を手に取った。折り紙での落ち葉の折り方も落ち葉の描き方も、昔ある人に教わった。


 その人は魔法の手を持つお兄ちゃんだった。

真っ白な紙から本物みたいな真っ赤な落ち葉が出来上がる。その過程をお兄ちゃんの隣で見ていた。ずっと……お兄ちゃんを見ていた。


        *


 午後9時。勤務を終えた芽依は更衣室に置いた荷物から携帯電話を取り出した。メール受信のランプが光っている。

大学の友人の夕美ゆみからだった。明日の夜にある合コンの人数合わせのお誘いメールだ。


 明日は土曜日で本屋のバイトも夕方まで。バイトの後は特に予定はなく、合コンに行けないこともない。


(合コンって彼氏欲しい人が行くものでしょ。私は彼氏いらないし……)


 正直なところ気が進まない。大学に入ってからは人付き合いで多少は合コンと呼ばれる集まりに参加したことはあるが、あのイベントは芽依にはつまらないものだった。


 メールの返信を考えあぐねながら着替えをして更衣室を出る。休憩時間に入った小池と廊下ですれ違った。


「お先に失礼します」

『お疲れ様。あっ……あのさ、清宮さん明日早番だよね。仕事終わりに予定ある?』

「明日は合コンに誘われていて……」


 芽依の答えを聞いた小池は残念そうに肩を落とす。


『そっか。合コン行くの?』

「元々参加の予定はなくて、人数合わせなのでどうしようか迷っています」

『へぇ。清宮さん彼氏は?』

「彼氏がいたら合コンなんて行きませんよー」


 狭い廊下でいつまでも立ち話はできない。二人は休憩室に入った。


「明日何かあるんですか?」

『清宮さんが観たいって言ってた映画の優待券貰ったんだ。だから一緒にどうかなって』

「もしかして〈ラストオータム?〉」


 芽依は映画を観るのが好きだ。映画館に行き、映画のストーリーに浸ることが彼女の趣味でもある。

 ラストオータムは今週公開したイギリス制作の洋画。観たいと思っていた映画だった。


『それそれ。でも明日は無理だよね』

「行きます行きます! 合コン断ります」

『え? いいの?』

「行きたくない合コンよりも観たい映画をとります」


 夕美には悪いが、せっかくの土曜の夜は好きなことに使いたい。小池が微笑した。


『じゃあ明日、俺も早番だから仕事の後に観に行こうか』

「楽しみにしています」


 小池に会釈してヒグマ書店を後にする。秋の夜風が吹きすさんで芽依のミディアムヘアーを掻き乱した。

 三軒茶屋駅に向かう道中で夕美には明日の合コンは予定があり不参加のメールを返した。風に流れて芽依の溜息が消える。


(合コン断るために小池さんを利用してるみたいでなんか嫌だな……)


 小池から向けられる好意に気づかないほど鈍感ではない。小池は新人の芽依の指導係。

仕事は丁寧に教えてくれ、休憩中の雑談も楽しい。映画好きな小池とは映画の話題でよく話が盛り上がった。


 小池に対する印象はバイト先の良い先輩。一緒にいるのも苦ではない。

食事や映画くらいなら二人で休日に会ってもいいと思える。だが男女の仲はそれだけで終わらない。

恋愛なんかしたくなかった。


 三軒茶屋駅を発車した電車が用賀ようが駅に到着した。用賀駅は芽依の自宅の最寄り駅だ。

駅から自転車で10分の場所に芽依の家がある。緩い坂道の下り坂でわざと自転車のペダルから足を離した。すううっと坂を下る感覚が気持ちいい。


 坂を下って閑静な住宅街に入る。建て売りの似たり寄ったりの住宅が並ぶ中で純和風のその平屋は目立つ。

清宮の表札がかかる門扉を開けて中に入った。玄関を入ると廊下の奥のすり硝子の扉が開いて婦人が顔を覗かせる。


ただいま」

「芽依ちゃん。お帰りなさい」


優しい雰囲気の中年の婦人は笑顔で芽依を出迎えた。芽依は家の中に漂う煮物の香りに鼻を動かす。


「今日のお夕御飯、肉じゃが作った?」

「そうよ。余ってるから明日の芽依ちゃんのお弁当に入れてあげるね」

「やった! 二日目の肉じゃがってお芋がふにゃふにゃになってて美味しいんだよね。、ただいまー」


居間では芽依の父が眉間にシワを寄せてジグソーパズルを作っている。ジグソーパズルは彼の趣味だ。


『お帰り。芽依、ちょっと手伝ってくれ』

「えー、今度は何の絵? ルノワール?」


パズルセットの箱に描かれた絵はルノワールの“読書する女”。父のパズルを手伝う芽依に母が温かいほうじ茶をくれた。


 この平屋の家も、母の肉じゃがの味も、父のジグソーパズルの趣味も、芽依は11歳の時に知った。

10歳までの“清宮芽依”はこの場所には居なかった。10年前の彼女は“清宮芽依”ですらなかった。


「お風呂温かくしてあるから入りなさい」

「はぁーい」


 優しい母と優しい父。そうだ、これこそが彼女の家族だ。

彼女が“清宮芽依”でいる限り、この幸せは崩れない。

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