キャッチセブンティーン
こがわゆうじろう
第1話
1
妙に鮮明に入道雲と青空がわかれた日、大塚は僕の働くバッティングセンターに現れた。古ぼけた、緑に塗りつぶされたバッティングセンターに。アルバイトを始めて一週間経った頃のことだった。
「ノストラダムスの大予言は嘘だった」
大塚はまだそんなことを言っていた。もう二年も前の話だ。一九九九年夏、人類は滅亡する。大塚は中学校三年生の頃、この予言を完全に信じていた。あの頃の大塚は少しノイローゼだったと思う。大塚ほどではないにせよ、それなりに怯える同級生もいた。
「今年で二十一世紀」
「そうだよ」
「二十一世紀が人類に来た」
「なんであんなに信じてたの?」
僕はボールの入った黄色いカゴを大塚の立つバッターボックスの後ろに運んで、ボールを磨きながら尋ねた。
「昔から信じこみやすいタイプだった」
「大塚、頭良いのに」
「頭の良さと思いこみの強さに関連性はないよ」
「そうかな」
「そうだよ」
頭が良いことは否定しないんだなと思いながら、僕はバットで叩かれ続け黒くなったボールを磨いた。ボールが綺麗でないと、ピッチングマシンから正しく射出されない。ただでさえもストライクゾーンに入らないバッティングセンターとして子供の頃から有名だったから、せめてボールは磨く。
大塚は右打席に立って鋭く金属バットを振り抜いた。二年前からあまり衰えているようには見えない。大塚は僕が所属していたリトルシニアチームの四番だった。
「ナイスバッティング」
「江森は打たないの?」
「暇な時に打つよ」
二年振りに会う大塚は、あまりその二年の月日を埋めるようなことは言わなかった。先月、いや先週に会ったみたいに、バッティングセンターに入るなり「よう」と言っただけだ。
「お前は高校でも野球続けてなかったっけ」
大塚は次の球も完璧に捉えて言った。
「続けてたよ。西東京大会の準々決勝まで行ったんだ」
「辞めたのか」
「先輩と後輩に辞めさせられた。二年生の癌だって言われて」
「監督は?」
「なにも言わなかった」
大塚の球はネットの上の方に当たった。ここが球場ならホームランだったろう。
「お前ってやる気が感じられないもんな」
子供の頃から、悔しくないのかと言われてきた。父さんにも、母さんにも、担任教師にも、野球チームの監督にも、先輩にも。後輩に言われたこともある。
三振やエラーが悔しくないわけがない。ただ、物凄く悔しくて自分の存在意義がグラつくほど動揺したかと問われると、そうでもない。そういう意味では悔しくないのかもしれない。
バッターボックスから出ると、大塚はドクターペッパーを買って僕の隣に座った。
大塚は野球に見切りをつけるのが早かった。都内の私立強豪高校からスカウトがあったけれど、それをすべて断って受験勉強に集中した。一九九九年の夏、ノストラダムスの予言が外れた頃からだ。
大塚は野球での集中力を勉強でも発揮して、すぐに進学校へ合格できる学力にまで持って行った。僕もその頃はあおい高校に入りたくて勉強をしたけれど、大塚ほどじゃない。
「都立でも甲子園に行ける可能性のある高校だったのに」
その通りだった。あおい高校は都立最強と呼ばれる高校で、準々決勝まで残るのも珍しくはない。まして僕の同級生にエースの中西というのがいるから、甲子園出場は夢ではなかったのだ。来年、中西が三年生になれば、いよいよ夢が夢でなくなる。
「中西だけは引き留めてくれたんだ」
「あのエースだっけ? あいつもなんで公立に行ったんだろうな」
「私立の猛烈な練習は嫌だけど、甲子園には行ってみたい。そういう半端な連中が集まってるのがあおい高校野球部だよ」
「そういう見方が態度に出て嫌われたんじゃないのか」
「かもしれない」
「そうだろ」
「そうかな」
人は思っていることがちょっとした態度に出る。大塚はそんなことを言った。それで思い出した。大塚は臨床心理士になりたかったんだ。それで野球を辞めた。
「僕はなにもいつもみんなのことを半端者と思ってたわけじゃないよ」
「まあ……、いろいろあったんだろうな」
「そうでもないけど」
「また来るよ。深川さんによろしく」
深川さんはここの経営を預かっている女性だ。年齢は三十歳前後だと思う。少なくとも僕がこのバッティングセンターに出入りし始めた十年前は女子大生風だった。いつも清潔な黒いスカートに白いシャツを着て、髪を後ろでまとめている。一見すると真面目そうだけれど、動作の細かいところにガサツさがあることに気づく。
人は思っていることがちょっとした態度に出る。大塚のこの言葉を借りるなら、深川さんは世の中を少し舐めている感じだ。僕を採用した理由も、一番最初に来たからというものだった。
「お疲れ」
深川さんはいつもの格好でバッティングセンターに現れた。夕日がハッとするほど不気味な時間だった。
「今日はもういいよ」
「ありがとうございます」
「なにかあった?」
「二番のピッチングマシンがちょっと詰まります」
「それだけ?」
「はい」
深川さんはポカリスエットを僕にくれると、二番のバッターボックスに使用中止の札をかけた。
「それと大塚が来ました」
「ああ、よく来るよ。初めて会った?」
「ここで働いてからは初めてです」
僕は深川さんに訊かれるまま、リトルシニア時代の大塚と僕について話した。
僕が左打者で主に三番、大塚が右打者で不動の四番だったこと。守備位置は僕がライト、大塚がサードだったこと。二人とも監督のことが好きではなかったこと。そんな話だ。
「大塚くんももう野球やってないんだよね」
「はい。あいつは中学校でスパッと辞めました」
そう言ったきり、僕はバッターボックスに入っているスーツ姿の男の人を眺めた。もう一〇〇〇円以上を使っている。意地になって一二〇キロの球を打とうとしていた。でもあのスイングではどうやっても無理だろう。
気がつくと夕日が沈みかけ、ナイター設備の電気が点いた。僕は深川さんにもらった業務用フリーパスのカードを入れて左打席に立つと、一二〇キロを二十五球打った。五球は明らかにストライクゾーンを外れて、ほかの二十球はバットに当てた。僕は大塚のような長打力のあるバッターじゃない。右に左に打ち分けるタイプだ。ヒット性の当たりは五球はあったと思う。
僕が打ち終わっても、スーツ姿の男の人は一二〇キロの球に食い下がり続けていた。多分、あの人は悔しいんだろう。僕ならバッティングセンターで悔しくはならない。
「お疲れ様~」
深川さんは緑の受付席で僕の知らない本を読んでいた。
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