私の背中を押して

秋野たけのこ

約束の時間

 約束の時間がやってきた。


 今日最後の授業が終わり、学園から生徒が帰る時間。もしくは部活動に励む時間。私はいつもと同じように、腕を枕にして机に伏せてその時間を待っていた。


「有希。もうみんな行ったよ」


 ぱちぱちと6月の雨が跳ねる音の中、後ろの席から彼女の声がする。それがいつもの合図。この時間、この場所でふたりだけの空間が始まることを告げる声。


「うん」


 そのいつもと変わらない声を聞いて、私はゆっくりと上半身を起こす。本当にいつも通りだ。


 私たちは授業が終わった後のこの時間、ほぼ毎日一緒に過ごしてきた。大半は世間の人たちにとってどうでもいい、くだらない話をして。


 でも、今日は違うはずなんだ。今日だけは。


「約束、果たしてくれるんでしょう?」


 いつも通りの澄んだ声が私の背中にかけられる。


「そのつもりだよ」


 普段から他人を嫌い、無関心な私でも心は揺らいでいるのに、彼女にはその揺れが一切感じられない。


 これから、彼女に頼まれた約束を果たすのに。

 これから、もうこの時間は訪れないというのに。

 これから――私が彼女を殺すというのに。


 それが、彼女との約束。


「そのつもり、では困るわ」


 そう言いながらも、きっと彼女は少し笑っている。


「分かってるよ。大丈夫だから」


 返事をしながら私は振り返った。後ろの席の住人は、やはり少しだけ笑っていた。いつも通り教室の人間がいなくなるまで読書をしていたのだろう、しおりを本に挟んで両手で閉じ、男なら目を逸らしてしまうであろうきれいな顔をこちらに向けて。


「……華凛、化粧してる?」


 化粧に疎い私はどのようなことをしているのか分からなかったが、彼女の頬や目元が普段とは異なっているのに気が付く。すると華凛はおかしかったのか、長く伸ばした髪を揺らして笑った。


「一応ね。雨に流されて無駄になってしまうと思ったけれど」


 死化粧ということだろうか。死後の姿のことまで気にするのは彼女らしいと思う。だが、その顔は死者になる者とは思えないほどに魅惑的だ。それこそ一緒に死にゆく者が出てしまいそうなほどに。それほどに、外の雨を見つめる彼女は美しかった。


 でもそっか、最期の日を迎えてもいつも通りに過ごす華凛に驚いていたけど、彼女だってちゃんと意識してたんだ。それが分かって、私はふぅと息を吐いた。


「どうしたの、ため息なんて珍しい」


 左ひじを机について頬に手を当てて華凛は私との距離を少し詰めてきた。また彼女らしく、私の感情の色を読み取ろうとしているのだろうか。


「私がため息をつくなんて、いつものことでしょ」


 私も同じように左ひじをついて距離を近づけた。ひとつの机の上でふたりが顔を突き合わせると狭い。


「言葉が足りなかったわね。そんなため息をつくなんて珍しい、というのが正しかったわ。いつも有希がしているため息は、興味がなくなったり面倒だったり、そういうときのものでしょう? でも今のは違ったわ。ほっとした?」


 まるで探偵みたい。なんで、こうも分かるのだろう。なんて、1ヶ月前に知り合ったばかりの頃の私なら思っていた。


 彼女のことを知った今なら、それは至極当然のことなのだと受け入れられる。だから私は頭の中と口とを同じにして声に出す。


「そうだね、今日のことを意識してたのは私だけのような気がしてたから。華凛は朝からずっといつも通りだったし。でも今日だけ特別に化粧をしてきたって分かって、華凛も同じなんだって思った」


「そう……」


 呟いて華凛はまた私を見る。そしてまた少しだけ笑った。


「ええ、ありがとう。やっぱり有希にしかお願いできないわね」


 私が嘘をついていないと確信した華凛は再び窓の外へ目を向ける。


 彼女は私とよく似ていた。だからだろう、ここまで近くにいてもお互いに不快にならないで済むのは。


 でも私たちは友達じゃない。同じ傷を舐め合うような仲間でもない。ただの似た他人。まるで鏡に映った自分を見ているような安心感がある。それだけの関係。


 そして6月6日、私たちはこの日を――死ぬ日と決めた。

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