第21話 身近な人間の悪口で毎日を楽しく過ごしたい

 俺とみずほは握手をした。普通だった。普通の握手だった。なんの変哲もない普通の握手だった。

「なんか手ぇネチャネチャしてへんけ? お前」

「な! 失礼な! じゃなくって! お前呼ばわりはやめろってしつこく言って……」

「あぁ、悪い悪い。じゃ、みずほでええな。みずほはどこに住んでるん?」

「またしても……初対面で名前を呼び捨てにするなんて、ずいぶんとなれなれしい! 私はあなたのことは雷同さんって、さんづけで呼ばせてもらいますからね!」

 少年ジャンプなどで、かつて敵だったキャラが、戦った後で仲間になる展開をご存知だろう。

 俺とみずほは意気投合してしまった。

 すでに周囲の八割が眠りに落ちかけている中、俺たちは水を得た魚のようにしゃべりまくった。

 会話の内容は若者らしい快活なものではなく、おもにテレビの批判だった。若手芸人から大物芸人までネチネチと欠点をほじくり返し、笑いあった。

「いやー、やっぱあれやな。他人の悪口ほど面白いものはないな」

「うん、そうだね。けど残念だー」

「残念って、なにがや?」

「君が同じ大学の人間だったり、バイト先でいっしょだったら、もっと身近な人間のことを悪く言えるのにね。そしたら毎日が楽しいのにって。そんなことを考えていたら、ちょっぴり切なくなっちゃった」

 そう言って彼女は髪をかきあげた。

 身近な人間の悪口で毎日を楽しく過ごしたい……言っていることは最低なのだが、不覚にも俺はきゅんときてしまったのだ。

 そしてたがいのアドレスを交換した。LINEやメールではなく電話でやり取りをすることが主流になった。

 夜、眠るまでの少しの時間、たとえば十時頃に電話がかかってきて、ベッドに横になりながら一、二時間話すことが多かった。

 女との会話はつまらないという認識を持っていたが、みずほに関しては違っていた。

 週末には緑の多い公園に出かけて、鳩や池に浮かぶアヒルをながめたり、大道芸やフォークデュオの演奏を見たり聞いたりした。

 口の悪いみずほだったが、ときおり妙にポエジーになった。ベンチや河原での会話が途切れたときに、ふいにスイッチが入るのだ。両手の親指と人差し指で枠を作り、その中に景色をおさめて、儚げな顔で言うのだ。

「この空……好き」

 というふうに。

 実際のところ、俺にはなんの変哲もない普通の空にしか見えなかった。

「こんなん、ようある普通の空やんけ」

 俺はそう言いたくてしかたなかった。

 実際に初期の頃は口に出して言っていたが、それにたいするみずほの反応がよくなかった。

 過剰に言い返してくるアクティブなリアクションではなく、まるで俺を憐れむかのように淋しく笑うのだ。あれはやりにくかった。そして俺は『この空……好き』にたいして否定も肯定もせず。

「え、あ、おう」

 と、ただ相づちを打つだけになった。困惑の表情を隠さないことが、俺にできるせめてもの抵抗だった。

 他にも派生系として『この池……好き』『あの山……好き』などがあった。『この猫……好き』と至近距離にいる野良猫にたいして言ったときには「指でファインダー作ってないで、撫でたれよ」と、さすがに注意した。

 大学で文学部を専行していた彼女は小説を書いていた。

 小説の内容はもっぱら、彼女がバイト先や大学で体験したことをモチーフにした私的な短編小説だった。俺はその作品群を読まされたりもした。

 いや、読んだという表現は的確ではない。

 電話のむこうで彼女が朗読するのを聞かされるのだ。

 ちゃんと感想を言うから、テキストで渡してくれよと要求したが、彼女は朗読を選んだ。声に出して読むことで句読点を打つ場所や、リズムの良し悪しを確認できるらしい。

 国語の授業で芥川龍之介の短篇を朗読で聞いたことはあったので全くの未体験ではないが、黙って十分以上も電話の声を聞き続けるのは忍耐が必要だった。

 ときには質問をはさみかけたり、疲れているときには内容を聞き逃してしまったりした。

 そして朗読が終わると感想を求められたが、俺は情け容赦がなかった。

「ごめん、途中からボーッとしてて聞いてへんかったわ」

 というパターンは三割くらい。

 たとえ聴いていたとしてもボロカスに言うことが多かった。作品がつまらないときには「ないわ」と三文字で評することもあった。

 ごくまれに褒めたりすると、みずほは喜んでいた。彼女は大学で小説を見せあい、批評しあうグループに属していた。けして厳しいコメントはせず、たがいに褒めあうようなゆるい集団だったので、飾らない俺の感想は誠実にすら思えたらしい。

 男女の間に友情は成立するか? そんなテーマがいたるところで議論されているが、あの頃の俺たちは友情で結ばれていた。親友であり悪友ともいえた。

 そんな俺たちの絶妙なバランスが傾き始めた。それは十一月半ばのこと、冬の到来を予感させる肌寒い季節だった。

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