第18話「え、あ……いや、だから」

 扉にノックをしたのはきっと受験の時の面接以来だろう。

 あの時はとても緊張していたせいもあって結構な手汗を握りしめていたことを深く記憶している。そして

 原因は違えど今日の今だって僕の手の上はひどく水滴にまみれたままであるのだ。

 僕って結構代謝いいよな。

 そんな感想を目の前にある荘厳な扉に対して思わず動いた左手を見て、僕は思った。


「どうぞ」


 ドアから響いた音はそこまで大きなものではなかったが、しかしそれでも中には届いていたのだろう。

 このうだるような暑さとは対照的な冷ややかで通った女性の声が耳に届いた。

 僕は後ろを見る。

 ここまで僕を連れてきた男は少し肩をすくめるだけで特に何も言うことはない。


「…………」


 入って、いいのか?

 そんな疑いを覚え思わず止まってしまったその手は、しかし再度投げかけられた「どうぞ」という声に促されるように扉を開けた。


「……何の用かしら? 私、見ての通り今は結構忙しいんだけど」


「…………」


 目の前に広がるのは大きな空間。

 赤いカーペットの上に並ぶ机と来客用のソファ。

 壁際に並ぶ棚々は手前は食器やティーセットの類が華やかに並んでいて、それが奥に行くほどに事務的な書類や書籍が並ぶ色合いのない光景への変化を手助けしている。

 その奥。

 一番奥に彼女はいた。

 座っていた。

 大きめの机と椅子に、

 彼女はいた。


「涼むのなら他所でやって。何度も行っているけどね。ここはあなたみたいな路上生活者がきていい場所ではないの」


 その手は忙しそうに動いていて机の上に並んでいる書類らが右から左へ、左から右へと忙しく移動を繰り返している。

 その作業をひとしきり五、六回ほど繰り返し、そしてようやく彼女が顔を上げた。


「だからさっさとあの薄汚い古屋に戻って少年少女の地域貢献活動にでも……」

 そこで目があう。目が合わさる。


「…………」


「…………」


 しばらくの静寂。沈黙が部屋の中の空気を通っていく。

 不思議と気まずさは感じなかった。


「……ん?」


 そして彼女の目が細くなる。焦点を合わせに行く。僕を確かに見ようとする。


「あなたちょっと痩せた? ……と言うより、なんかこう……縮んだ?」


「…………」


「いえ、違うわね。なんだろう。雰囲気というか、感じというか……」


「…………」


「あーもう言語化できないわね気持ち悪い。くっそ、ちゃんと見てやる。……あれ、メガネどこやったかしら」


「……あの」


 特別コミュニケーション能力に優れてもいない僕ではあるけれど、それでもどうやら彼女が僕と海斗を間違えているらしいことぐらいはわかる。わかった。

 だからどうやら近眼らしい彼女に変わって自己紹介を済ませようという考えは何もおかしいものではあるまい。


「ん? なんだ今の声」


「え、あ……いや、だから」


「え、待って待って怖い怖い怖い怖い。なんか変な声が聞こえるんだけど! なんかあんたの方から他の男の声が聞こえるんだけど!」


「だからあの——」


「何これ? え、これ私だけに聞こえるやつ? 心霊現象ってやつ? 今超昼なんですけど? めっちゃ昼なんですけど? なんならすんごく暑くて幽霊さんには全く適さないであろう気温なんですけど?」


「…………」


「いやそりゃ確かにここは学校ですし、なかなかに古く歴史もありますし、戦争中に戦死者も多く出しましたし、七不思議とかもあるっちゃあるし、そりゃ幽霊さんにとってみれば最高なロケーションだとは思いますよ? 当然冷房設備はあるわけだから外に比べれば涼しいとは思いますし、それなりな設備を整えてはいる自負はありますけれど、でも、それはあくまで生徒会長の私が行う作業の効率のアップを狙ったものであって、それも校長先生が引退するとかなんとかいって引き継ぎ業務を夏休みの間に済ませなくてはならなくなった悲しき私目への同情が生んだ産物でありまして。だから、はい。つまり決して恣意とか私情とかそういったものに突き動かされた結果の行動ではないということをどうかご検討していただいた上で、その上で祟りでていただけたらいかがでしょうか!?」


「…………」


 なんだか勝手に震え上がってしまったらしい生徒会長。

 謎なビジネス敬語が所々に混ざっていたのは、やはり事務作業などを通した職業病の結果なのかとて丁寧なおねがいをここには存在していない幽霊様とやらに捧げた彼女は現在、そのまま机の下に隠れてしまった。

 先ほどの扉やその中に広がっていた室内のイメージそのままに決めつけてしまっていたイメージの『生徒会長』としての彼女と、こうやって現実向かい合って対峙した『生徒会長』に少なからず野ギャップを抱いた僕ではあったが、しかし同時に僕は思い出していた。

 海斗の説明。

 彼女の紹介文を思い出していた。

 

 『俺の幼馴染で、お前の幼馴染で。

 年下で。生意気で。気弱で。引っ込み思案で。病弱で。

 今は——この学校の生徒会長でもある女だ』


 ……なるほどな。

 確かに当たっているのかもしれない。

 病弱や引っ込み思案なのは現段階でわかるものでもないのだろうが、しかし残りの三つの特徴は十分に目の前を言い得ているだろう。

 この学校の生徒会長ということは彼女は高校三年生。つまり僕の一つ年下になるし。

 先ほどの来客対応を見れば彼女が海斗に対してそこまでの好意を抱いていないことは十分にうかがい知れるわけで、だから海斗が彼女に対して『生意気』と評価するのも頷ける。

 そして一体彼女の中でどんな勘違いがなされたのかはわからないが僕の声が天から聞こえるう幽霊的ななにかだと勘違いしてからの彼女の弱さっぷりは正直見ているだけで十分に面白いものだった。


 ということはだ。

 つまり、彼は嘘は言っていないわけである。

 彼の発言に、嘘はなかったと見るべきである。


 ならば——じゃあ。

 その前の言葉。

 『お前の幼馴染』というその言葉だって、嘘でもなんでもないものだと、見るべきなのだ。

 全部本当だったと、見るべきなのだ。

 記憶になくても。

 記憶を信じるべきではないのだ。

 僕は、目の前の少女と出会っている。

 幸いにも、まだ彼女は僕が僕であるということには気づいていない。机の下に隠れたままに、気づいていない。

 ならば。

 ならばここでいう適切な挨拶は一つだ。

 たった一つで、間違いなく一つで、

 それ以外には、ないとすら言っていい。

 恐る恐ると顔だけをこちらに向けてこちらを見ようとするその一人の少女に向かって、僕はゆっくりとその言葉を吐いた。

 


「——久しぶりだな。若葉」


 どうしてか。

 どこか懐かしさが残るその音と言葉の『嘘』と格好付けは、僕の中でしばらくの反響を続けた。

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