キオクノカナタ

西井ゆん

記憶のかなた

 人の記憶は曖昧だ。

 曖昧で、おぼろげで、とても儚い代物だ。

 楽しかった、も

 悲しかった、も

 辛かった、も


 全て過去にし、現在から消していく。

 未来のために、かき消していく。

 今のために、消えていく。



 夏の日に彼女は言った。


 海風になびいて細かく広がる髪を両の手で押さえながら。


 彼女は言った。


「過去を振り返らず、未来を悲観せず」


「あなたは——今を生きて」


 いい言葉だと思った。

 僕はとてもいい言葉だと思った。

 いい言葉だし、正しい言葉だとも思った。



 時間は何もしなくても流れていくから。

 人は前に進まなくてはいけないから。

 全てを抱えて、生きてはいけないから。


 だから過去は振り返るべきではないんだ。



 先の見えない未来を生きる上で、悲観はほとんど泥沼だ。

 一度でもそれを見てしまえば、もうきっと二度と前には進めない。

 その足は前に出てこない。


 だから未来は悲観すべきではないんだ。



 でも。


 でも今を生きるとはなんだろう。


 今を生きるとはどういうことだろう。


 僕は今を——生きているのだろうか。





 記憶は曖昧で。

 曖昧で、おぼろげで、とても儚い代物だ。


 人は忘れてしまう。


 キオクノカナタへ。


 思い出を——消してしまう。上書きしてしまう。


 あまりに簡単に、手放してしまう。



 そして——僕も手放してきたのだ。


 たくさん。

 たくさん。


 捨ててきたのだ。


 過去にすがることもせず。

 今を生きることもせず。


 未来だけを志向して。


 未来だけを危惧して。


 僕は確かに生きてきた。


 今日までを——生きてきた。



 でも。

 でも——どうして。


 だったらどうして、僕の心はこんなにも痛いのだろうか。


 どうして、痛み続けるのだろうか。


 夏が来るたび——


 どうしてこんなにも心は切ないのだろうか。





これは僕が夏を知るまでの物語。


夏と記憶の物語。

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