序章

濫觴の樹


 目を焼くような白色の世界に、一条ひとすじの路が続いていた。


 路と言えども、明確に風景と隔てる視標はない。ただ漠然と進むべき地が真っ直ぐに伸びている。そこにあって、色彩を持つエドワルドは文字通り異色の存在だった。

 ふらふらと覚束ない足取りはさながら放浪者。時折、背後に首を巡らせてはのろのろと歩を進める。


 ――前へ。前へ。

 どこへくべきかは分からない。けれども路は続いている。ならば足を動かすしかない。


 肩が左右に揺れ、足が前に出る。拳一つ分。また、前へ進んだ。


 ままならない思考は路の果てを夢想する。一面の雪景色か。闇を飲み込む深淵か。はたまた彩溢れた花畑か。どれほど歩めば辿りつけるだろう。いつかは辿りつけるだろうか。

 爪先で地をって前に。上体が遅れて続く。


 ごんっ。

 不意に頭を何かに打ち付けた。


 久しく忘れていた痛烈な刺激に思わず身悶える。眦に一雫、涙を浮かべて恨みがましく見上げた先には、しかし何も見えない。


 恐る恐る右手を伸ばせば、垂直に建つ何かを捉えた。エドワルドが辿ってきた路には未だかつて存在したことのない何か。その全形を知るべく手探りに輪郭を辿れば、おおよそ門の形状をしていることが分かる。白色に透ける透明で、門柱はエドワルドの背丈ほど。額の高さに横木があった。


 ――なるほど、これに強打したのか。


 恨みがましく拳で小突く。意図した程の力は入らず、硬質な門の上塗りを滑り落ちた。門柱に手をかけ、今度こそはと屈んで足を差し入れる。


「……えっ……?」


 踏むべき地の代わりに、頓狂な声が出た。慌てて背を仰け反らせるが、重心が移動した身体は無残にも前方に傾ぐ。膝から先の力が抜け、反射的に目を瞑った。ぞわりと背筋を悪寒が駆け巡る。


「おいおいおいおいおい――!?」

 浮遊感が全身を包み、エドワルドは力の限り絶叫した。前後不覚な真っ白な世界を揉まれながら落ちてゆく。


 ――嘘だろ。死ぬのか。この高さじゃまず助からない。痛いだろうな。ああ……。


 ぐるぐると回る。体も、思考も。

 どうにか両足を手繰り寄せて、決して離すまいと身を固めた。


 呼吸もままならない息苦しさと容赦無く頭を千切り飛ばしそうな遠心力の中でエドワルドが意識を飛ばしかけた、その瞬間。背中に硬いものを感じた。衝撃で肺が押され、息が詰まる。


 白眼を剥いた刹那に緑を捉えた。


 樹だと認識するなり、耳元で破裂音にも似た衝撃が迸る。エドワルドの決して軽くはない痩身を受け止めた太い枝が折れたのだ。枝葉がしなって、空を切る。回避するかのように身体は更に下に落ち、葉が無残に千切れ、怒った枝が鞭を振った。


 そして、唐突に地面に投げ出される。

 何転したのかも定かではないが、幸か不幸か背面から落ちた。


「……ぐっ」


 蛙を轢き潰したような声が出る。不思議と痛みはないが、唖然として身体は動かなかった。

 惚けた顔に遅れて舞い降りてきた葉がふわり、ふわりと鎮座する。責っついて吸い込む空気は新緑の芳香を帯びていた。


 やっとの想いで身体を捩らせ目を開けば、鮮やかな黄緑色の草原が飛び込んできた。ぽつぽつと咲くのは白詰草。頬を撫でる微風そよかぜに重い頭を揺らしている。虹を透かした羽を優雅に振るう蝶はどこか幻想的で……。


「……ど、こだ。ここ」


 眼前に広がる風景に息を詰まらせながら、エドワルドは顔に積もった葉を払う。小高い丘は優しく草が揺れ、空は絵具を水に滲ませたように淡く輝く。どこか懐かしい景色だが、見覚えはない。

 状況を把握しようと首を巡らせかけ――その挙動は、はたと止まった。


「無様ね」

 感慨の欠片も窺えない女の声が頭上から降ってきたからだ。間隙を入れずに鋭い風切音が続き、重量を感じさせる鈍い音でもって大地を震わせる。思わず全身を硬直させて、視線だけを投げかけた。


 ――は、刃物……?


 剣の切っ先だ。伸びやかな白銀の刃体がエドワルドのすぐ横で怪しく光る。身動ぎをすれば忽ちのうちに首でも刈り取られてしまいそうな禍々しさを放っていた。声なき声が喉の奥に生まれて、消える。


「ようこそ、迷える子羊」

 呼吸さえも忘れて青褪めるエドワルドに向けて、歓迎の言葉が降る。その声音は驚くほど粗野に耳に残った。

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