第31話 日本国特区ガンジス諸島、北部繁華街

 翌日も晴天だった。

 ヨットに乗り、午前中のうちに島を一周した。運転したいと言ったので、アオラと変わってやった。なかなか筋が良い。運動が苦手だったレイラニと違い、運動神経が良いのかもしれない。しかし、浜に降りて昨日買ったブーメランを投げさせてみると、てんでうまくいかないので、まったくレイラニとは逆だな、とおかしくなる。


 繁華街である島の北側で昼食をとる。海が一望できる、洒落た造りのレストランだ。勇凪ひとりなら来ることはない。平時なら食事にそこまで気を使わないし、隠居した中年男がひとりで入るには敷居が高すぎる。

「綺麗だねぇ」

 テラス席のガーデンチェアの上で足をぶらぶらさせながら、アオラが嬉しそうにしていたのでほっとした。

「気に入った?」

「うん、海が綺麗」

 アオラが見ていたのはレストランの外観ではなく、碧い海だった。わざわざ慣れないガイド本を見ながら選定した店だったのだが、アオラには効果が薄かったようだ。いや、レストランから一望できる海が気に入っているのだから十分か。


 まだかな、まだかな、と鼻歌を歌いながら注文の品を待つアオラに断って席を立ち、テラスの外側から電話をかける。

「星見です」

『ああ、勇凪くんか。アオラは元気?』

 電話向こうの八尾はすぐに反応してくれた。

 勇凪は単刀直入に、台風が接近しているので予定日よりも早めに帰したいが、今日の晩に戻ることになっても大丈夫かと尋ねる。

『まだ台風は大丈夫だと思うけど……何かあった?』

「いや、単に——」テラス席のアオラを一瞥する。配膳されたシーフードピザを頬張ってご満悦の様子だ。離れているので電話の会話を聞かれていることはないだろう。「心配なだけです」

『そうか』

 家族のことに関して、勇凪と八尾の間に嘘はない。少なくとも勇凪のほうではそう思っている。言いづらいことは言わないし、言いたくなければ言いたくないと言う。相手が言葉を濁していればそれ以上に追求しない。そうした関係性は、レイラニが死んでから築かれたものだ。

 だから八尾はそれ以上の追求はしない。詳しい経緯は手紙に書いてくれるだろうと思っているだろう。

 電話はいつも通り、要件を伝えるだけで終わった。


「誰と電話してたの?」

 席に戻ると、アヒージョに箸を伸ばしてアオラが問いかけてきた。好奇心が強いアオラならこうくるだろうというのは予想してしかるべきで、実際勇凪はその質問は予想していた。だが返答は考えていなかった。子ども相手でも、嘘は苦手だ。「いや、まぁ」と言葉を濁してどうにかできればと思ったが、それくらいでアオラは追及の手を緩めない。

「もしかして、お父さん?」

 え、なんで、どうして、と勇凪の反応を見る以前に、アオラの中では結論は定まったようだ。しかも正しく。

「どういう用事?」

「いや……」しばらく逡巡する。その間も箸は動き、口に物は運ばれた。「アオラは明日までいる予定だったけど、今日の午後に帰ったらどうかって相談していたんだ」

「えっ」

 なんで、どうして、なんで、お父さんが帰ってこいって言ったの、それともおばあちゃん、と矢継ぎ早に言葉を浴びせかけてくる。


「そうじゃないけど、明日は台風で天気が悪くなりそうだから、早く帰ったほうが良いんじゃないかと思って」

「なんでそんなこと言うの?」

 さなちゃんはぼくがいちゃ厭なの、駄目なの、と泣きそうな顔になる。

「そういうわけじゃない」

 そういうわけではない。そういうわけではない。アオラのことは確かに負担だ。ガンジス諸島で、勇凪はあまり他人に関わることなく生活している。もともと人の少ない西側の海岸に住んでいて、隣に近所の家があるわけではなく、ただ海があるような場所であり、魚なら釣れば手に入るとなれば、週に一度、ヨットで買い物に出るだけで生活できた。そんな暮らしをしていた勇凪にとって、アオラという他人、しかも加減が効かない子どもとの生活というのは、わずか数日とはいえ大きな重荷だった。

 それでも勇凪はアオラが嫌いではない。当たり前だ。義理の妹であるレイラニの子であれば、血は繋がっていない。それでも、まったくの他人ではない。アオラの成長は勇凪にとっての喜びだった。アオラのことが負担になるのは、この島にいる間楽しんでもらおうと尽くすからで、好意ゆえだ。

 だから、勇凪がアオラを帰らせようとするのは、台風で帰れなくなるまえに帰してやったほうが幸せだろうという親切心以外の何ものでもなかった。


「帰りたくないもん」

 アオラはぐずる。声をあげて泣いてはいないが、涙ぐんでいる。鼻水も出ている。紙ナプキンで拭ってやる。

「そんな泣くほどのことじゃないだろう? 明日が今日になるだけだし、また遊びに来られるし」

「厭だもん、ここにいたいもん」

 なかなか落ち着きそうになかったので、ウェイトレスにデザートを頼んだ。


 アイスクリームが運ばれてきたとき、アオラはまだ涙ぐんでいたが、視線はアイスに釘付けだった。

「そんなに帰りたくない?」

 食後の茶を飲みながら、勇凪は尋ねた。

「だって……帰ったら宿題とか、お手伝いとか、いろいろしなきゃいけないんだよ? ここならいっぱい遊んでいられるし………」

 アオラの返答は期待通りではなかった。「さなちゃんのことが大好きだから」という返答が欲しかった。ま、贅沢は言うまい。伯父という立場からは、嫌われていないだけありがたいというものだ。

「お手伝いはこっちにきてからしてたじゃん」

「あれは……自分がやりたいからやっていたんだもん。言われてやるのとは違うもん」

「そうか」

 勇凪は笑った。確かに進んでやるのと、命令されてやるのでは同じ行為でも心構えも感慨も違うだろう。


「でもね、台風が来て何日も戻れなくなったら、きっとお父さんは心配するよ。お父さんが悲しんだら、厭だろう?」

「それはそうだけど……」

 アオラはアイスを口に運んだ。半分幸せで、半分悲しいといった感情が顔に表れていて、複雑そうだ。やはり早めに帰らせることは言わないでおいたほうが良かったかもしれない。しかしギリギリになって空港で言ったら、それはそれで泣かれていただろう。その場合は、機嫌をとるためのアイスはないのだ。


 午後は土産物の購入のために繁華街に出かけた。繁華街といっても、賑わっているのは港の近くにあるアーケードだけだ。屋根付きの歩行者天国には左右に土産物屋や地元の服屋、八百屋、魚屋などが並んでいて、ガイドブックにもこの通りは紹介されているのだが、実際のところ港のほうが行き交う人は多いだろう。とはいえ日持ちがする土産物を買ったり、配送まで頼んだりするのなら、こちらのほうが適している。

 最初は早く帰らないことを引きずっていたアオラだったが、土産物を買ってもらったり、試食をしたりしているうちに機嫌を取り戻して、最後には笑顔になった。勇凪はアオラに服を買ってやった。


 十五時を回ったあたりで一度自宅へ荷物を取りに戻ってから空港のほうへと歩を向けたが「まだ時間があるでしょ?」とアオラは道中でどこかに連れていってほしいと言ってきかなかった。

 関東への海面効果翼機の便は、日の長いこの時期は一日六便あるが、あまり遅くなっては迎える八尾も大変だろう。できれば十六時の便に乗せたいので、そこまで遠くにはいけない。せいぜいが、空港近くのガンジス記念公園くらいだろう。

「そこでもいいよ」

 と妥協するアオラを連れて行く。


 ガンジス記念公園は記念碑がある以外はだだっ広い敷地があるだけの公園だ。それでも子どもの頃は、レイラニを連れてよく来た覚えがある。ブーメランを投げるのに広い敷地は都合が良かったからだ。家の近くでは、投擲に失敗するとブーメランが海に落ちてしまうのである。

 アオラもブーメランを投げた。投擲そのものはなんとか形になってはきたが、まだキャッチは覚束ず、一度も成功していない。

「帰っても練習するからね」

「お父さんと一緒に、広い場所でやってね」

 と勇凪は言ってやった。


 手を繋いで空港へと向かう。その間、「また来るからね」「また遊んでね」「忘れないでね」「約束してね」と何度もアオラは言っていた。忘れるわけがない。忘れるとすれば、可能性があるのはアオラのほうだろう。子どもの時間は早い。伯父との遊びなんて、すぐに面白くなくなってしまうだろう。約束も、忘れてしまう。

 それでも良かった。わずかな思い出でもアオラの中に残ってくれれば、それで。


「お客さま、申し訳ございません。現在機体のトラブルで、海面効果翼機は運休しております」

 だが空港でアオラの乗る海面効果翼機のチケットを取ろうとしたところ、係員に告げられたのは急な運休の報せだった。

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