第30話 日本国特区ガンジス諸島、自宅
「釣れたっ、釣れたよっ」
竿を置き、釣り上げた魚を両手に捧げるように持ったアオラニが、ぴょんぴょん飛び跳ねながら言った。小型魚だ。針がついたままで、手のひらの上で勢いよく跳ねている。
「すごい、すごくっ活きが良い」
ガンジスに来てから初の釣果である。アオラは魚と同じように飛び跳ねることで、全身で喜びを表現した。
「すごく活きが良いよっ、ほらっ、さなちゃん、見てるっ!?」
見える。見ている。はしゃぎすぎだ。それと、魚の中にはオコゼやカサゴなど、怪我をしかねない魚もいるので、釣り上げてすぐには触らないようにしてほしい。
「すごいっ、活きがっ」
三回目の「すごい活きが良い」で、アオラは笑顔のまま海に落ちた。勇凪は慌てて海に飛び込み、引き上げた。
「活きが良すぎた………」
海から引き揚げられ、桟橋に仰向けに寝転がったアオラは嘆息した。
「桟橋の上ではあんまりはしゃぎすぎないようにね」
「うん……」
で、魚は、とアオラはびしょ濡れで寝転がったままで尋ねた。
「いるよ。針が引っかかったままだから」
桟橋の上で跳ねている魚に向けて、アオラは「ぼくのほうが活きが良かったな」などと言っている。
釣れたのは小型のグルクマという魚で、鯖の一種で、腹は白いが背中が鮮やかな海色で、大きめの斑点が乗っている。生簀に放り込んでおく。
「ちゃんと釣れたね、魚」
吃驚だよ、と言いながら針につけるのは勇凪が午前中に使っていた紅生姜だ。「生姜なんて食べてないのに魚が釣れるの?」と懐疑的だったアオラで、「ルアーだって食べられないだろう?」と言っても疑っていたのだが、実際に釣ってみてようやく納得したらしい。
竿を振って仕掛けが遠くに飛ぶと、それだけでアオラは誇らしげな顔をした。竿を持ったままで、桟橋の上の勇凪の横に腰掛ける。
午後、勇凪とアオラはさっそく釣りを始めた。といっても、竿を握っているのはアオラだけで、勇凪は隣でぼうっと見ているだけだ。場所は家の玄関から続く桟橋である。この場所は勇凪がいつも釣りをしている場所で、勇凪にとっては新鮮味も何もないが、アオラにとってはほとんど海の上に浮いているような家も、木製で海に浸かっているのに腐らず流されない桟橋も、そこから足を出しての釣りも、釣れる魚も、何もかも珍しいらしい。人がほかにいないので、騒音だの、糸が引っかかっただの、針を引っ掛けられただのといった迷惑を気にしなくて良いから、楽だ。海に落ちなければ。
「さなちゃんは釣りしないの」
珍しいのはたまにしか会わない伯父のこともなのだろう、呆けとしている勇凪にアオラの質問が飛ぶ。
「釣りをしているのを見てるよ」
「怠け者だなぁ」
アオラにとってみれば、これは休日だろう。アオラは子どもだが、学業はある。その余暇で、ガンジス諸島に来て、釣りを楽しんでいる。
だが勇凪は違う。これが勇凪にとってのいつもの日々だ。ゆっくりと、変化のなく、蓄えをただ浪費するだけの日々。死ぬのを待つだけの。
勇凪は敗者だ。戦いに負けて、逃げ帰ってきた。
夕焼け刻になる前に竿を畳み、生簀の魚で夕餉を作る。アオラが手伝うと言って寄ってきたので、盛り付けをやってもらったのだが、「もっと難しいのもできるよ」と物足りなさそうだった。アオラは日頃家事の手伝いをしているのだろうか。八尾からの手紙では特に触れていなかったが、手つきに不安なところがあるので、少なくとも料理の手伝いはしていない気がする。
魚は揚げた。失敗がなく、楽で良い。ついでに島ラッキョウとインゲンも揚げる。その横でおろし人参と卵の炒め物も作った。味噌汁の具はヒトエグサと島豆腐。米も炊いた。いつもは一品、せいぜい二品程度しか作らず米もろくろく炊かないのだが、若いアオラが来ているとそうもいかない。
子どもの頃から家にある籐材のテーブルに皿を並べ、向かい合って手を合わせる。
自分で釣っただけ、グルクマの揚げ物をアオラはいたく気に入ったらしい。美味しい、美味しいと言っていたので、勇凪は自分のぶんをくれてやった。一方で、島ラッキョウは厭らしい。インゲンも。まだ酒飲みにはなれなさそうだ。
キッチンシンク横の冷蔵庫まで足が向き、ビール瓶を取りかけて、戻して麦茶をとってテーブルに戻った。
「さなちゃん、お酒は飲まないの?」
「今日は」
「そう。それは良いことだよ。お父さんなんか、毎日のように飲んでるもん」
「どんなかんじ?」
「もう駄目。だらだら飲んでるし、お風呂入れって言っても聞かないの。テレビ見ててもあんまり理解してないし、いつの間にか寝てるし、寝てるのに起きてるからチャンネル変えないでって言うし……」
アオラの口からはいくらでも苦言が出て来そうだったが、何にしても親子仲は悪くはなさそうだ。ほっとする。
食後、食器を洗っている間、アオラは家の中を探検していたが、二階に上がってしばらくしてから勇凪を呼ぶ声が聞こえてきた。
板の貼られた螺旋状の階段を登って二階へ上がる。二階といっても、ほとんど屋根裏に近く、一階よりも狭いうえに天井も低い。勇凪の身の丈ではぎりぎりだ。二階は物置と子ども部屋しかない。
二階の床は一階と同じように木張りだが、子ども部屋は一階のように絨毯が敷かれておらず、素材がむき出しで粗暴な扱いが招いた傷だらけだ。走り回るには邪魔な柱も傷がついているが、こちらは背丈を記録するためのものだ。成長して改めて見ると、いかに自分が小さかったかがわかる。ドア側の壁は垂直だが、反対側の海に面した側の壁は屋根の構造に合わせて内側に斜めになっていて、開き戸の窓がついている。
勇凪がこの家に戻って来たとき、かつて使っていた部屋の物品は高校卒業のときに出ていった当時のままだった。勇凪の部分は。部屋の半分はレイラニも使っていて、あまり使わないカーテンで仕切りがされていたのだが、変化があったのは部屋の左側、レイラニの側だけだ。小さな机に背の低い箪笥、それにベッド。それだけしかない。
昔はもっと物があったし、東京にやってきて同居していた頃はアオラは色々と小物を置いていた。植物や置物も好きだった。本も。ブーメランも。それらがこの部屋にないのは、島を出るときに東京へ送ったか、整理して物置に仕舞ったか、捨てたかしたからだろう。また戻ってきたときに出せば良いと、戻せば良いと、買えば良いと思って、整理した。それなのに、勇凪の部屋はそのままにしておいた。勇凪がいつか戻ってくると思ったのかもしれないし、案外、部屋を広げるためにいちいち片付けるのを面倒臭がっただけかもしれない。
理由は知れなかったが、島に戻ってきた勇凪の取った行動も同じだった。すなわち、部屋をそのままにした。たまに掃除はする。実際に自分が同じような行動をしてみると、これは単に面倒だっただけだな、という気がしてくる。
とにかく、部屋の半分は、勇凪が昔住んでいたときのままだ。アオラが興味を示していたのは部屋の隅に吊られたハンモックだった。
「さなちゃん、これっ、これ、ハンモックだよね? 寝ていい?」
アオラには少々位置が高かったので、かける場所を調整してやる。
「ここ、ママの部屋?」
「というか、子ども部屋かな」
「さなちゃんも昔はここだったの?」
「半分は」
「ハンモックで寝てた?」
「ベッドで」
「なんでぇ?」
ハンモックで寝ているとレイラニが乗ってきて、落ちるからだ。
ぶらぶらと揺られながら、アオラは今日はこのハンモックで寝たいと言った。特に構わないとは言いつつも、改めてハンモックの位置を低く張り直し、落ちても危なくないように下にクッションを敷いた。数日の間、ここはアオラの部屋だ。
夜。アオラが二階で寝静まったのを確認してから、勇凪は一階の居間に戻り、壁際のラックに収まったパソコンのキーボードを叩いた。家庭用としては珍しい本体ディスプレイ分離型だ。わずかな明かりだけを灯した居間に、ディスプレイが点灯する。スリープしてはおらず、ディスプレイだけを切っていたので、表示されるのは実行し続けていたプログラムだ。画面上ではLinux系のターミナル画面が表示されている。ときどき思い出したように数値を吐くそれは、領域気象モデルの実行経過を示すものである。
計算しているのはガンジス諸島周辺の天気だ。一次情報に気象庁の天気予報を使い、そこからさらに細かい時間・空間解像度で計算を走らせていた。研究員時代どころか、学生時代よりも価格でいえば劣るようなマシンであれば、アンサンブル予報のために同時に複数の計算を走らせることなんてできないし、地球全体を対象とした計算なんてできない。それでも対象をガンジス諸島周辺に絞れば、気象庁が出しているものよりも高い解像度で情報を得ることができる。
アオラは明日まで勇凪の家に泊まり、明後日には海面効果翼機で本土に戻る予定となっている。気象庁の予報とも比較しながら見る限りでは、明日は天気は問題はない。しかし帰宅日の明後日に、南東のほうから台風が接近しているのが見えた。接近しているとはいっても、まだガンジス諸島は勢力圏には入っていないだろうが、それでも天気予報は必ずしもあてにできないということは勇凪は知っている。どれだけ計算力が上がっても、計算機に代入する観測値が完全に現実を反映していない以上は、現実と計算の間でずれが生じる。それは時間が経つにつれて加速度的に大きくなり、計算は現実から乖離する。だから天気予報は予報開始から時間が経てば経つほど信用できなくなる。
「アオラは明日帰すか」
ぽつりと独り言ちる。小学生の夏休みはまだまだ長いとはいえ、予定よりも長く親元を離れさせるのは不安だろう。アオラも、八尾も、祖父母も。来たらいろいろと遊び場を案内してやろうと思っていたが、機会はこれからもある。もしかすると次の機会を見送っている間にアオラがガンジス諸島や勇凪に興味をなくすかもしれないが、そうなったらそうなっただ。それも成長というものだろう。アオラを自分の思い通りに育てたいとは思わない。勇凪は敗者であり、そんな自分がこれからがある、未来がある若者に口出しするべきではないと、そう思っている。
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