第24話 日本国内地、東京都立川市国際医療センター

 瞼を開いたという感覚はなかった。


 身体が重いとは感じなかったし、熱っぽいだとか痛いだとかも思わなかった。であれば現実感がなかった。まるでうとうとと居眠りをしていながら、ほんの僅かの間だけ覚醒したかのように。目の前に何人か立っていたが、そのうちひとりについてはすぐに誰かわかった。レイラニだ。久しぶりだ、と勇凪は思った。泣いていたので、どうしたのだろう、とも。思ったが、声は出なかった。喉が動かないのか、口が動かないのかすら判然としない。もしかすると瞼すら開いていなくて夢を見ているのかもしれない。そんなふうに思うだけ、何もかもが希薄だった。


 また意識を失って——いや、もともと意識など保っていなかった。ただ一瞬の緊張が切れて、ただただビルの間に張られた綱から落ちるように意識が沈んだ。

 今度は目が覚めたことが自覚できた。意識がいくぶんはっきりしている。起きている。死んではいない——そう、死んではいない。勇凪はそれを己に言い聞かせずにはいられなかった。

 寝台の上にいるということは、首を動かさずともわかった。天井も壁も白い部屋で、絵画が掛けられてはいたが、装飾は多くはなかった。入り口の引き戸は居住空間としては随分と大きかったが、部屋そのものはそう大きくはない。ただ己が載せられている寝台だけが、部屋の簡素さと小ささに対してごちゃごちゃとしていて巨大だった。

(病院だ)

 意識も記憶も明瞭ではなかったが、それだけのことが理解できたのは、部屋を見てではなかった。左の鼻からチューブが差し込まれている。右腕には点滴の管が刺さっている。胸には心電図でも取っているのだろう配線がベッドの下へと伸びているうえ、股間にも何か異物が刺さっている感覚がある。だがいちばんの違和感は腹にあった。

 点滴などのチューブは繋がれてはいるが、身体を縛られているというわけではない。それなのに腕も脚も首も動かない。正確には、指をぴくりと動かすことはできるのだが、それ以上に動かそうという意思が生まれない。

 どうせベッドから降りられたとしても、チューブの反対側がベッドに固定されているのであれば部屋からは出られないだろう。そこまで考えたわけではないが、勇凪は動かなかった。何もせずに、ただぼぅっとしていた。


 しばらくじっとしていると、扉が開いて薄紫色の白衣のようなものを身につけた看護師がやってきた。看護師の瞳は寝台の上の患者に目を留めた瞬間にわずかに大きくなったが、大袈裟な驚愕は見せなかった。とすれば、数年の意識不明状態を経て奇跡的に目覚めただとかいうことではないのだろう。

 看護師が現状の説明をしてくれた。その説明の内容は、勇凪が夢現つの中で辛うじて思い出した内容と逸脱するものではなかった。

 勇凪は転落事故に遭っていた。

(やっぱりか………)


 なんとも馬鹿馬鹿しい話だが、自宅から落ちた。アパートの三階だ。疲弊していたんだったか、眠気に耐えかねたんだったか、強風が吹いたのか、何があったのかはいまいち覚えていないが、少なくとも突き飛ばされただとか、自殺だとか、そんな大それたことではない。ただの事故だ——馬鹿馬鹿しい事故である。

「良かったね、良かったね………」

 良くはない。

 いや、勇凪が目覚めたという報せを受けて駆けつけたのであろうレイラニの言いたいことはわかる。死なないで良かったと、目覚めてくれて良かったと、そういう意味だ。質問に対して、ほとんど動かない唇を蠢かして返答をしたことで、自殺の可能性も否定できたので、それも「良かった」に含まれるのかもしれない。

 わかるのは、レイラニが心の底から勇凪の覚醒を喜んでくれているということだ。青い瞳からぼろぼろと溢れる涙は、勇凪の額や頰を濡らした。

 事故当日からはまだ丸一日も経過していないらしい。とりあえずそれだけは理解できた。仕事は、研究はどうなったのだろうと考えているうちに、いつのまにか寝ていた。


 次に目覚めたときはベッドごと運ばれるところだった。寝かされたまま。そう長い距離ではない。部屋から出されて、通路を左手に折れた先に大部屋があって、そこだ。大部屋といっても、片方の扉は常に解放されているらしく、通路の途中にあるスペースといったほうが適当かもしれない。勇凪の寝ているのと同じようなベッドが複数並んでいて、ベッドの数だけ患者がいた。老人、若い女性、働き盛りの男、患者は種々様々だったが、全員がベッドの上で寝ており、水色の患者着を着ているのは共通していた。カーテンで仕切られているベッドもあったが、あの上にも患者がいるのだろう。

 空いているスペースにベッドごと入れられる。部屋の隅だ。

 ここはICUで、勇凪がこれまでいた個室は特に重篤患者のための場所なのだろう。危険な状態を脱したため、大部屋に移されたというわけだ。未だ鼻からチューブが入り、腕には点滴が突き刺され、腹にはぐるぐると大袈裟なくらいに包帯が巻かれているわけだが、ひとまず、ひとまずは安心と、そういうわけだろう。


 これまで特に大きな怪我をしてこなかったため、今、いったい自分がどんな状態なのか、勇凪にはよくわからなかった。が、看護士には特段に心配されたり、励まされるようなことは言われず、であればそれほど問題はないということだろう。

 動いても良いか、と看護士に聞いてみると、そんな状態ではない、という返答が返ってきた。だがやることがない、と言うと、本でも読んではどうか、と言われた。本か。忙しくなってからはほとんど読んでいない。興味が出てきて、何かあるのかと尋ねると、通路横の金属ラックを開いて中を示した。紙の文庫本が入っているように見えたが、看護士が取って来たのを見ると、漫画本だった。

「他には?」

「漫画なら他にもありますよ。刑務所で空手を習うやつとか。学者先生は漫画は読まないですか」と言うからには、この看護士は勇凪がどういう人間か知っているらしい。いや、単に職業を知っているだけかもしれない。なんにしても、言い方はともかく、言葉調子に悪意は感じられなかった。

 そんなことはない、と否定するが、「どっちにしろ、ICUは電子機器持ち込みは制限されていますから、パソコンやPDAは禁止なので、あまり娯楽はないですよ」と言われた。

 ICUにはテレビも備え付けてはいないらしいが、これは電子機器持ち込みの制限というよりは、単なる予算削減のためであろう。そもそも日常的にテレビは見ないわけだが、それにしても他に何もやることがないのであれば、言われた通り漫画本でも読む以外になさそうだった。昨今、紙媒体の書籍は減少したが、前世紀の古いものに関してはその限りではない。紙媒体の本は当時の世相を残す遺産だが、特に保存もされずに使い回され続けている。


「元気そうだね」

 しばらくベッドの上で半身を起こしたまま漫画を読んで時間を潰していると、来客があった。こつこつと杖をつく音が伴っているのであれば、顔を見ずともレイラニだとわかる。それに夫の八尾。子どもは連れてはいなかった。訊けば、赤子は八尾の実家に預けてきたのだという。

「まぁ、わりと」

 答えた声が掠れている自覚はあった。ベッドからは動けず、点滴に繋がれ、自分の怪我の具合もまだわかっていない——そんな状態がどれだけ元気かといえば怪しいが。

 レイラニは先日——おそらく昨日だ、時間感覚が随分と怪しいが——会ったときよりも、いくぶん落ち着いて見えた。事故直後は彼女も勇凪が怪我を負ったことには随分と気を揉んでいたということだろう。

 レイラニはよく喋った。体調はどうか、何か不自由はないか、医者や看護士からは何か言われたか、等々。


「ところで、今月学会に参加するっていう話をレイラニから聞いたんだけど——」

 話が一区切りしたところで、話を切り出そうとした八尾の袖をレイラニが引っ張った。耳元に口を近づけ「今は良いでしょ」と言った。本人は勇凪に聞こえないようにしているのかもしれないが、聞こえてしまう。でなくても、見ている目の前で内緒話をしようとすれば聞き耳を立てずにはいられない。

「なんですか」

 と勇凪は八尾に先を促した。

「いや、ええと、参加予定の学会のキャンセルの連絡とかってした? あとホテルの予約とか」

「ああ……忘れてました」

 学会のことなど頭から抜け落ちていた。仕事のことをそもそも思い起こすことが少なかったような気がする。怪我の後遺症か、はたまた手術の際に使った薬が未だ効いているのか、頭がぼんやりとしているせいだ。レイラニと喋っていても、勇凪の仕事について触れなかったことも関係しているかもしれない。病院のベッドで縛り付けられているこの時間は、これまでの忙しい時間から乖離していた。


「座長なんですよね……連絡しないと」

「今はそれどころじゃないでしょ」

 とレイラニが八尾の腕を引っ張ったが、それどころである。研究者のコミュニティは狭い。いかに事情があったとはいえ、連絡できる状況なのに連絡しないとなれば、評判が悪くなるだけだ。だいたい、連絡ひとつ入れたところで体調が悪くなるわけでもない。

「研究所の秘書さんか上司に連絡頼んでおけばどうにかしてくれると思います。ホテルの予約は……まだ余裕があるし、病棟移ってからでも大丈夫かな」

「うん、とりあえず、じゃあ研究所にぼくから連絡しておくよ」

 ということなので、素直に八尾に頼んでおく。

 ふたりが去っていってから、ベッドに背中を預ける。ベッドには半身を起こすためのリクライニング機構が組み込まれており、快適な睡眠をとるには硬い。しかし、休める。眠れる。ここ最近、忙しかった。だからちょうど良いさ、と己に言い聞かせて、眠った。

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