第21話 日本国内地、独立行政法人気水研究所
結婚式は日曜で、翌日からはそれまでと変わらず、仕事が始まっていた。変わったのは、レイラニがもはや家にいないということだけだ。とはいえ、ここ数日は結婚式の準備でばたばたしていただけ、朝はむしろ穏やかだった。
徒歩で十分、モノレールで十分、駅からまた十分歩いて研究所へ向かい、自分のコンピュータをスリープから起こす。メールが来ていた。一ヶ月ほど前に出した論文のリバイス要求だ。毎度のことながら、論文の反応を見るときは緊張する。英語での文面というのは、勇凪が英文に慣れていないせいもあるのかもしれないが、「こうしろ」「ああしろ」「理解できない」「直せ」とどうにも力強い色があって、厭だ。とはいえ勇凪自身も査読者として論文をレビューしたことがあり、そのときの経験でレビュワーの文章に対しても穏やかに見られるようになった。文章が厳しいのは英語での指摘に慣れていないためだ。重箱の隅を突くように細かいところまで指摘してくるのは自分がちゃんと仕事をしているということをアピールしたいためだ。そう思えば、穏やかな気持ちでみようという気にはなる——結局は緊張するのだが。
基本的に論文はふたりの
まともに文章や図に手を加えなければならない指摘点は八つで、そのうち三つは特に面倒そうな内容だった。ある解析内容が不十分なので追加せよ、という内容に関しては、少し時間がかかるがそれをすれば良いだけのことなのでそこまで問題ではない。問題なのが、この論文の根本を問われている点だ。これについては、共著者と相談する必要があるだろう。
勇凪の今回の論文は、生まれ故郷であるガンジス諸島に深く関わる内容だ。
ガンジス諸島。
その名は前々世紀に日本の探検家が発見したものの、政府に報告された報告書に記された場所にその島はなく、結果として幻の島とされていた島の名から取ったのだと、小学生の頃に習った記憶がある。
約二百年前の隕石衝突に伴う地殻変動によって、世界各地で出現した新島のうちのひとつだ。当時、隕石衝突の直接の衝撃のみならず、多発する火山噴火や地震、地磁気の変化によって大混乱に陥ったが、発見当時は大きな話題になったという新島の存在は大きな話題になったらしい。しかし特に産出資源がなく、農作にも牧畜にも適さないとなれば、ほとんどの人間からは見放された。長いこと海中にあった部分が、突如として持ち上がってきたのだ。生活に適さないのは当然だった。領域が増えた結果として、領海や排他的経済水域が広がったというメリットはないではなかったが、当時の気候変動の混乱からすれば、それどころではなかった。
飛びついたのは三種類の人間だけ。すなわち、世界的危機の中で新島を観光資源として見出した人間か、不便な場所でもそれまでの国の暮らしから逃げ出したかった人間か、でなければ、地球物理学者かだ。出現した島は、ただそこにあるだけで海流や気流の流れを変えた。突き出した島々は海水を押し上げ、水面高度や塩分濃度を変えた。隕石衝突で数多の粉塵が巻き上げられた。地球は変わった。解き明かされることを待ち望む新たな問題が勃発していた。だがそれを起こしたものそのもの、すなわち新たに出現した島の気象条件や地質については十把一絡げに扱われ、その熱意はすぐに失われていった。
現在では、新島の研究している人間は少ない——勇凪はその数少ないひとりで、だから研究者をやっていけている。競争率が高いところを狙わなければ、需要があるというものなのだ。だが、それにも限界がある。
(二年目、か………)
研究者になってから二年目。勇凪は、これ以上ガンジスや新島の研究に固執するべきではないのかもしれないと思い始めてきた。レイラニがもういないガンジスに。
実際、研究所のプロジェクトで雇われている勇凪はもっと別の研究するべき内容があった。勇凪はポスト・ドクターだが、正確には特任研究員という任期付研究員で、特定のプロジェクトに関する研究を行わなければいけない。天気予報などにも使われる、予報計算システムの改良化だ。もちろん、それもやっている。そちらの研究のほうがメジャーであり、予算獲得がしやすく、何より被引用回数が多くなりやすい。
論文というものは、出して雑誌に載れば等しい評価を得られるものではない。
論文の力とは、どれだけ引用されたかで評価できる。引用された論文ほど価値が高い。他の論文に対して大きな影響を与えるからだ。論文を掲載する雑誌全体での平均の被引用回数なども産出されていて、それはインパクト・ファクターという指標になっている。要は、多く引用されるような論文を掲載しているような雑誌はインパクト・ファクターが高くなるので、それは価値の高い雑誌だ、となるわけだ。
それらの指標で見てみると、勇凪のこれまで出してきた論文は残念ながら価値が高くない。どの論文も引用数は片手で数えられるほどだし、掲載された雑誌はいずれも世界に向けて発信している英文雑誌ではあるものの、日本の雑誌で、米国や英国のそれと比べると評価は下がる。
もっと、もっと良い論文を書かなければ、研究者としてはやっていけない。
もっと世間に求められるテーマに対して、もっと深く掘り下げなくては、何も成せない。何も残せない。何も。何も。
「星見くん」
飯を食いに行くか、と隣の部屋の住人から声がかかったからには、既に十二時を回っていた。時間が過ぎるのは早い。気づけば三十手前だ。
いや、時間が早いのではなく、テンポが悪いだけなのだろうか。十年間も大学にいて、二十七歳でようやく学業を終えた。ストレートで来てもこれだ。仕方がないといえばそうだが、もっと——もっと別な道があったんじゃないか? もっと、もっと別の道が。その考えが、いくら払っても頭にこびり付いて離れない。
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