第三行 火の国の魔剣

第20話 日本国内地、東京都立川市結婚式場『アネラ』


 人を殺してから、人目を気にするようになった。


 殺したのは十歳のときだ。故郷のガンジス島にレイラニが来たばかりの頃、逸れた彼女を探して港を走り回っていたとき、彼女に悪戯をしていた男がいた。当時は具体的に何をしていたのか、そして何をしようとしていたのかは理解できなかったが、今なら理解できる——したくもないが。

 そのときは理解できないにはできないなりに、身体が勝手に動いた。彼女を助けて男を突き飛ばし、逃げた。男は酔っていて、そのまま海で溺れ死んだ。観光客だった男の死はニュースにはなったが、勇凪が殺したことは誰にも知られず仕舞いだった。


 あれからだ。あれから——怖くなった。いや、誰かに自分のことを知られるのが怖くなったのは、レイラニを拾ったときかもしれない。海に落ちていた彼女を一度見捨てて、そのために脳に後遺症が残ったことを知ったときだ。

 いまもまだ、その足には後遺症の影響が残っている。だから勇凪は、彼女がドレスに足を引っ掛けないか心配だった。本人も緊張しているらしく、紅を引いた口元は珍しくぎゅうと張り詰めていた。それでは駄目だと、腕を組んでいる勇凪は言ってやりたくなった。こういうときは、笑っていなくては駄目だと。

 壇上といえばいいのだろうか、司会の待つ高くなっている場所まで連れていったところで、レイラニが息を吐くのがわかった。腕を放してやるとこちらを向いて、それからにっこりと笑んだ。勇凪に。何を言いたいのかはすぐにわかった。笑えということだ。どうやら自分の表情も固まっていたらしい。しかしこんな状況で、自分は笑うところではなかろうと思う。泣くところだ。


 レイラニと八尾の結婚式は九月、少し曇りつつも残暑を忘れられる涼しげな日に、立川市内の小さな結婚式場で行われた。式の参列者は当事者ふたりの友人、同僚、親族とで三十人程度の小さな式だった。現在レイラニの親族というと勇凪だけで、そこは少々肩身が狭く感じないでもなかったが、実際に式が始まってみればやることは十二分にあって忙しいくらいで、であれば知人がいないことを嘆くなどということはなかった。

「さなちゃん、ありがとう」

 式は人前式で、特段に格式張ったものではない。会食後、式場の中の小さな教会のような建物の中で指輪の交換と接吻をして、その後は外に出て終わりだ。いや、ブーケも投げていった。慎ましい式だ。勇凪はレイラニのスピーチに拍手をした。八尾とレイラニの式を見届けた。ふたりが連れ添って外へ出ていくのを見送った。ドレスが少しきついのか、レイラニの背中の肉が少しドレスの上に乗っていた。


「終わったなぁ」

 結婚式というと、最後は後ろに空き缶だか何かよくわからないものを括り付けた車に新郎新婦が乗って何処ともなく消えるという情景が浮かぶものだが、特にそうした儀式はなく、レイラニたちは小教会の建物を出たあとは式場の庭を抜け、その後は結婚式場のメインホールのほうへと戻っていた。このあとは来場者を見送る必要があるのだという。予定進行を決める際、勇凪もいくつかの手順を手伝おうとしたが、レイラニに止められてしまった。

「さなちゃんは見ててくれればいいよ。あ、でも、おとうさんの代わりに新郎さんのところまで連れていく役目だけやってほしいな」

 と言われ、勇凪はその通りにした。

「終わったかぁ」


 参列者が式場を出る準備を整えている間、勇凪は式場を出て少し歩いたところにある小さな公園のベンチに座って息を吐いていた。近くの集合住宅に住んでいるのであろう子どもが遊具で遊んでいたが、特に勇凪に注意が払われることはなかった。

 もし自分が喫煙者なら、煙草を吸うべきところだろう。そんな気分だ。喫煙者ではなくても吸いたかった。そういえばプラハでは、嫌煙の時代の流れに逆行するように煙草屋や喫煙者をよく見たな、と思い出す。八尾とレイラニが知り合った、あのプラハだ。


 あの日、朝に八尾とともに観光に行ったレイラニは、十五時を少し回った頃に帰ってきた。日はまだ高く、観光には十分に時間がありそうに感じたが、なぜ戻ってきたのか、その理由は沈んだ表情を見ればわかった。

「うまくできなかった」

 ちゃんと喋れなかった、歩くのが遅かった、一度は逸れてしまった、お昼ご飯は食べきれなかった——そんなことで目元を腫らしていた。

 プラハには一週間いたが、そこでのレイラニと八尾とのやり取りは、それだけだった。だが日本に帰ってから、ふたりは会っていたらしい。付き合っているのだと聞かされたのは三ヶ月後で、結婚がその三ヶ月後。早めの結婚を勧めたのは勇凪だ。妊娠したとも聞かされていたから、それなら早い方が良いだろうと思った。

 八尾はレイラニより八つ上なので三十半ばで、勇凪よりも年上だ。レイラニは勇凪の妹で、するとその結婚相手の年齢が幾つでも配偶者は「義理の弟」ということになるらしいというのには笑えてしまう。もちろん、義兄さん、義弟よ、などと呼び合うつもりはないのだが。


 ぼんやりと空を見ながら「地球物理学って何やるの? どうして空は青いか、とかやるの? 海はなんで青いか、とか?」などと勇凪が大学に入ったばかりの頃、電話越しの母がとぼけて電言っていたのを思い出す。たぶん、冗談として言ったのだろうが、それは遠からずだ。

 空が青いのは大気中の大気分子が太陽光の強い波長よりも概ね小さいからだ。光——つまり電磁波がその波長よりやや小さい粒子に入射したとき、散乱される光の強さは波長の短いほうが強くなる——つまり人間の目でいうと紫色の光だ。ただし、紫色の光はもともと太陽の光の中に含まれている量が少ないので、結果的に青がいちばんよく見える。だから空は青い。海が青い理由は違って、通常は水分子が波長の長い赤い光ほど吸収するからだ。

 今の空は、少し白く濁っている。光の波長よりも同程度の分子が大量にあれば、その効果が強く、その場合は波長に関わらず概ね一律に光を散乱するため、もとの光の色——つまり白色に見える。


 東京の空の色は、ガンジスとは違う。


 ガンジス——ガンジスでは、レイラニはずっと、勇凪のあとをついてきていた。レイラニが軽鴨のように勇凪のあとをついてくるようになったのは、蘇生したときに最初に見たのが勇凪だったからかもしれない、と医師は言ったものだった。

「動物の中には、最初に見たものを親と認識してついてくるものがいるけど、たぶん彼らにとってはそれが……なんというか、心地良いことなのだろうね。それがいちばん良いって素直に信じられることなんだよ。レイラニちゃんの場合はそれとはちょっと違うけど、一度は心臓が止まって死にかけて、そこから蘇生したことがとても良いことで、それと同時に勇凪くんのことを見たから、それがとても良いことだと感じたんじゃないかな……まぁ、脳のことはまだまだわからないことが多いから、わりと想像ではあるのだけれど」

 レイラニは勇凪のおかげで一命を取り留めた。それは間違い無く、であれば良いことだという言い方は間違いはないだろう。そう、良いことだった。


 だがもっと良い行いもあった。もっと正しい行いは、レイラニを見つけたときにすぐ助けることだった。そうしていれば、彼女の脳には障害が残らなかったかもしれなかった。

 自分のしてきたことは、何もかもが正しいことではなかった。もっと善い行いがあった。もっと正しいことがあった。

 であれば、人間そのものにしてもそうだ。自分よりももっと善良で、もっと正しく、もっと適した人間がいる——それがレイラニにとっての八尾だった。

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