第5話 日本国特区ガンジス諸島、自宅

「さなちゃん、ごはん」

 北緯三〇度帯に存在するガンジス島は、真冬でも六時前に地平線は徐々に明るくなり始める。でなくても今は真夏で、だからいくら明るいといってもまだ起きるには早いのだ。

 それなのにレイラニは明るくなるとすぐに起き出してくるのだ。母の寝床を抜け出して、二階の勇凪の部屋までやってくるのだ。そうして勇凪の身体を揺すって要求してくるのだ。ごはん、ごはん、勇凪ちゃん、ごはん、と。


 レイラニの言語学習速度は想像以上に早かった。

 表現は単純で覚束ないが、本国に居た頃はおそらく殆ど聞いたことが無かったであろう日本語を、文法はあやふやなものの使いこなしているのだから十分だろう。

 一方で精神面がどうかといえば、そちらは未だ怪しいのではなかろうか、と勇凪は思う。母によればレイラニは勇凪の二歳下で、しかし行動はといえば幼児のようだ。腹が減って朝飯が喰いたいというのなら母にねだればいいだろうに、何度説明してやっても朝は勇凪のところに来るのだから、始末が悪い。


「さなちゃん、ごはん、ごはん」

 夏のガンジスは暑く、であれば寝床に毛布だの掛布団だのと重苦しい物はかけてはいない。編み木に棕櫚皮を載せたベッドの上に寝転がり、その上にタオルケットをかけているだけであれば、隠れることもできない。でなくとも、何処かしら身体の突き出しているところがあれば、レイラニはそれが何であろうとも掴んでくる。今日も彼女は勇凪の腕を掴み、レイラニは上下に振った。

 選択肢は幾つもあった。たとえば、このまま無視して寝てしまう。だが幾ら無視しようとしても、レイラニはぐずって諦めようとしないだろう。耳元で泣き喚かれては、じっと目を瞑っていることさえ困難になる。もっと直接的に、たとえば、殴る、蹴るとしたところでも、たぶんレイラニは動かずにこの場で泣いているだろう。もっと五月蠅くなるだけだろう。


「レイラニちゃんは、勇凪くんのことが好きなんだよ」

 医者の言葉を思い出す。レイラニの治療とリハビリを担当してくれた衣笠医師だ。母の友人でもあるこの医師は、星見家でレイラニを引き取るにあたって、いろいろと親身になって世話を焼いてくれた。

「懐いているって言ったほうが正確かもしれないね。脳に酸素が行き渡った直後に見たのが、勇凪くんだったからかもしれない。刷り込みに近い状態になったのかもしれない。軽鴨の親子みたいな」

 懐いている表現は的確で、レイラニは勇凪の行くところ、どこにでもついてきた。逆に勇凪が目の前からいなくなると、それだけで慌てふためき、泣き出すのだ。母親の言うことはいちおうは聞くが、勇凪がいないと落ち着きが無く、そわそわとし出すし、集中力が無い。だからこうして、朝になるとまず勇凪を起こしに来るのだ。


「さなちゃん、ごはん」

 レイラニの声は止まない。勇凪はベッドから這い出て、彼女の手を引いて一階まで降りた。未だリハビリは続けているが足の障害は取れず、片足を引きずる形なので心配なのだ。

 母を起こすべきかとも思ったが、どうせ朝は大したものを作ってくれないのだから、起こしても顰蹙を買うだけだろう。自力で朝食を用意することにし、鍋に水を張り、卵を入れたうえで火をかける。湯が沸いたら乾燥米粉麺を入れる。麺が茹るまでの間に、野蒜を洗う。

「レイラニ!」

 びくりと鍋に手を近づけていたレイラニの身体が硬直する。

「おてつだいしようとしただけ………」

 と言い訳してきたが、料理をしているときには近づかないように言っているのだ。が、言っても聞かないのは一度ではない。わかっていたから、先んじて制することができた。


 注意されればすぐに反応はするものの、それが続かない。人の話は聞くが、忘れっぽくて、注意散漫で、考えずに行動をして、兎に角、見ていて落ち着かない。馬鹿なのだ、だから仕方が無いのだ、と思えばいくらか優しくなれた。

 椀に茹で上がった米粉麺を盛って、つけ汁と胡麻と茹で卵と野蒜を載せる。テーブルの上に載せてやると、レイラニは箸を握り、しかし上目遣いにこちらを見てくるだけで、手をつけようとはしない。ご飯を食べるときはみんな揃ってから、というのは覚えているのだ。馬鹿でも記憶していることはある。

「ママはまだ寝てるから、食べよう」

 そう言ってやると、目を輝かせて箸を麺に突っ込む。まだ箸の扱いは慣れていないので、食べ方が汚い。食べ始める前に手を合わせてもいない。まぁ、それも仕方が無い。待てるようになっただけ、進歩している。


「さなちゃんといっしょに学校にいきたい」

 朝食が終わり、母が起きて来てから、登校しようとした勇凪にしがみついてせがんだとしても、泣いてぐずる程度なら楽なものだ。勇凪は登校用のザックを担ぎ、己のヨットに飛び乗る。海上保安隊に預けられていたヨットだ。

 使用した緊急救命装置の交換がされたヨットを返却されたとき、海上保安隊からは特に咎めるような言葉を添えては来なかった。装置の交換点検以上のことはせず、航路記録はチェックしなかったのか、それともただ黙殺しているだけなのか。前者であってほしい。あって欲しかった。

 目の前が傾く。

 海に落ちた、というのはすぐにわかった。球形の泡がぶよぶよと形を変えながら立ち上っていく。腕を広げて水を掻き、水面まで戻る。傾いたヨットを立て直し、這い上がる。

 考え事をしながらヨットを操舵していたら、いつの間にか転覆してしまった。水が入ったので、鼻が痛い。狭いヨットの上で仰向けになって、空を見上げる。空の色は海よりも濃い青だ。横に広がった雲が幾つもいくつも浮いていて、陽を跳ね返している。眩しい。くそ。太陽でさえ苛立だしく、拳でヨットの内壁を叩けば揺れてまた海に落ちそうになった。

 服を一度脱いで、絞ってから着直す。学校に着くころには、半ば乾いている。多少は濡れていても、あまり気にしない。気になるのは、家のレイラニのことだけだ。

 いつもは授業が終われば、陽が暮れるまで砂浜で友人たちとサッカーをしていく。だがレイラニと離れて初日の今日は気が気でなく、授業が終わるなりヨットに飛び乗った。


「さなちゃん、おかえり」

 家を出るときはタンクトップにハーフパンツという簡素な恰好だったが、今は海と同じ色の青いパレオを纏っていた。レイラニだ。

「可愛いでしょ? 昔わたしが着てたのを引っ張り出してみたの」

 という母の説明を受けて、嬉しそうにくるりと回転する。一枚布を巻きつけただけのパレオは涼しげだ。露出している肩は白く、ガンジス諸島に来て未だ日が経っていないことを感じさせた。

「今日は早かったのね。ちょうどいいから、ふたりで遊んでらっしゃい」

 勇凪のヨットはふたりまで乗れる。乗れるというのは、許容量がそこまであるという意味で、後ろに人を載せて航海をしたことはほとんどない。

 緊張するのはそのせいだ、と勇凪は己に言い聞かせる。

「すごいね。はやいね」

 レイラニは操舵をする勇凪に後ろから抱き付いている。海で死にかけたのだから、ヨットを怖がるのではないかと思っていたのだが、本人はいつも通り能天気な様子だ。死にかけたとはいっても溺れたわけではなく、落下の衝撃で心臓が止まったためだからだろう。あるいは、死にかけたときのことなど覚えていないのか。

 いや、医師は覚えているだろうと言っていた。正確には、その時の記憶があるから、レイラニは勇凪のことを好いているのだと。

 レイラニはどれだけのことを覚えているのだろう。覚えている内容にしても、どれだけそれを正しく理解しているのだろう。


 そんなことを考えているうちに港に着いた。漁船が繋がれている波止場を横目に、より陸地に近い堤防にボートを繋ぐ。ボートから堤防へと降りるときのレイラニは、恐る恐るという調子ではあったが、先に勇凪が降りてやると、意を決して飛び降りてきた。抱きとめてやる。

(遊んでらっしゃい、って言ってもなぁ………)

 レイラニは今でも片脚を引き摺るように歩いている。この障害に関しては、記憶障害よりも原因がはっきりしているらしいが、治すのはそう簡単なことではないらしい。原因がなんであれ、レイラニは走ったり飛んだりといったことができない。泳げない。であれば、ゲームでもするか。テーブルゲームか。ボードゲームか。コンピュータゲームか。でなければ何処か見に行くか。本島の港には市場がある。レイラニに市場を見せるついでに、遊び道具でも探せるかもしれない。レイラニにとっては市場を見て回ることこそが遊びになるかもしれない。天から伸びて本島に突き刺さる剣を眺めながら、勇凪は進路を港へと向けた。


 コンクリートで固められた港はそのものが市場だ。出店形式の店が所狭しと立ち並んでいる。海側で売っているのでは魚介類や果物といった生鮮食品で、日用品も少し売っているが、衣類や家具などはもう少し内陸側まで歩く必要がある。

「さなちゃん、ここ、人がいっぱいいるね」

 レイラニはきょろきょろと首を巡らせていたが、その顔は好奇心よりもむしろ恐怖心が強そうに見える。ボートに乗っていたときよりも不安そうだ。大勢の人間が怖いのだろうか。見知らぬ人間が怖いのだろうか。手を握ってやる。

 出店を見て回りながら、売られている魚の種類や価格を見ていく。買い物に行く母に同行すると、この魚はどういう種類だの、味がどうだの、どういう料理方法があるだのという話をするので、覚えてしまった。それを説明してやると、そのたびにレイラニが、すごいねと、すごいねと、よく知っているねと、そんなふうに勇凪のことを褒め称えて目を輝かせるので、気分は悪くなかった。

 陸に近いところに近づいていくと、日用品の売り場が多く見えてきて、たとえばパレオだとかがハンガーに吊られるようになる。それでも、いまレイラニが着ているほどに鮮やかな碧のものはない。


「さなちゃん」

 手をレイラニにぐいと引かれ、勇凪は後ろに転びそうになった。港のコンクリートの上に茣蓙を引き、パラソルで日陰を作っただけの簡素な出店の前に、レイラニは座り込んで勇凪の名を呼んだ。何を見つけたのかと思って彼女の視線の先を追うが、ただの土産物屋だ。

「さなちゃん、見て」

 レイラニは興味津々に商品を手に取っていた。あまり常識がないので、商品ということを理解せずにそのまま持っていってしまいそうだ。握っていたのはくの字型の焦げ茶色の物体だった。両端は黒く塗られており、中央部分には蜥蜴や鳥を模したような模様が白や赤で描かれている。見た目は木製だが、枯れた木材よりはやや重い。

 ブーメランはガンジス諸島の特有の土産物というわけではない。確か、オーストラリアだとかでアボリジニだとかいう原住民が使っていたのではなかろうか。でなくても、ガンジス諸島はほんの百年ほど昔にできた歴史の浅い島々であり、海の真ん中にぽつんと孤立しているのであれば、他国から文化が流入してくることもそうそうない。だからこのブーメランは、ドラゴンの形をした黄金色に輝くキーホルダーのようなもので、ガンジス特有の土産物というよりはただの土産物屋で売っている物なのだ。

 だというのにレイラニは「これ、かって」などと言う。


「高いよ」

 値札は千円と出ている。ガンジス諸島に住んでいる人間であれば、買い物に財布は不要で、本人の認識が取れればそれで買い物の通知が母に行く。だから財布がないことなど瑣末なことであり、母からもレイラニが何か欲しがっていたら常識的な範囲なら買ってよいと言われているので、買うことそれ自体は不可能ではない。だが、なんだ、ブーメランか。投げたことはないし、いや、そもそも実物をこの目をで見たことすらない。フリスビーならあるが。どうやって投げるのだろう。投げると本当に戻ってくるというのか。狩りに使っていたという話を聞いたことがあるが、獲物に当たっても戻ってくるのだろうか。考えていると、なぜか欲しくなってきた。実際に投げて試してみたい。本当に投げて戻ってくるのであれば、足が悪いレイラニでも遊べるだろう。ふむん、悪くない。

 だというのにレイラニは「じゃあ、いいや」などと諦めるのだ。

「安くするよ」

 と助け舟を出してくれたのは日焼けした顔の老人だった。真っ白の長い髪のせいで年齢がよくわからないが、少なく見積もっても勇凪やレイラニより五十は年上だろう。知らない顔だ。

「いくら?」

「百円」

 急に十分の一になってしまった。こうなると逆に不安になる。ブーメランというのは仕掛けがあって戻ってくるのだろうが、これはちゃんと投げて戻ってこないものではないのか。

「本物だよ。上手く投げれば戻ってくるよ」

 などと老人が勇凪の心を読んだかのようなことを言う。

 結局、勇凪はそのブーメランを購入した。どうせ百円だし、などと思ったが、勇凪の小遣いは学年の数かける百円なので、いまは五百円。百円というと勇凪の月の小遣いの五分の一だ。自分の財布から払っていたなら、間違いなく安くはない買い物だと思ったことだろう。


 ともあれ買ってしまえば、その買い物が適正だったかどうかよりも、早く投げたいという気持ちのほうが勝る。港の近くは障害物が多いので、小高い人口丘陵のある記念公園へと向かう。百年近く昔にガンジス諸島が現れた際に調査隊によって建てられた記念碑を中心とした公園の樹々の大部分は人工樹だが、見た目も機能も自然のものと大きくは変わらない。公園にはスポーツや散歩をする人々がいたが、整備された人工芝の広場に十分なスペースを見つけた。

「なげるの? なげるの?」

 わくわくとした表情を隠さないレイラニを手で制し、「先に手本見せるから」と勇凪はブーメランを振りかぶり、身体ごと半回転させるようにして投擲した。


 回転しながら勢い良く上昇していくブーメランを見ながら、どうも想像していたのと違うな、と勇凪は思った。というのも、回転しながら進んでいくのはよいのだが、進みながら上昇していくのだ。肩のところくらいの高さで投げたはずなのに、くるくると回り回る飛翔体は、いまや記念公園の樹々よりも高く昇ってしまった。

 ぼうと眺めながら、なるほどヘリコプターと同じだな、と勇凪は納得した。あれも翼を回転させて飛行するわけで、ブーメランと同じだ。しかしヘリコプターはブーメランと違って戻ってきたりはしない。何が違うのだろう。空高く持ち上がったブーメランの回転は緩くなっているように見えるが、これで戻ってくるのだろうか。

 と、そんなふうに考えているとブーメランが静止した。回転が止まったのだ。そうして、降りてくる。今度は逆回転だ。ああ、戻ってくる。回転しながら徐々に降りてくるようだが、どうにも様子がおかしい。徐々に速度が早くなっているように見える。このままだと——。


「さなちゃん?」

 勇凪はレイラニを一瞥した。すぐにブーメランに視線を戻すが、まだ加速している。落ちてきているからだ。どんどん速くなっているのだ。投げたときほどではないにしても。素手では受け止められないほど。当たれば怪我をするほど。

 勇凪はブーメランに背を向けて、レイラニに抱きついた。レイラニの身体は小さく、軽く、簡単に包み込むことができた。息を止めて、歯を食いしばって、背中に力を込め、目を瞑る。衝撃。

「ちょっとちょっと、大丈夫?」

 声は上のほうから聞こえてきた。身体を起こして瞼を開いてまず目に入ってきたのは大きな瞳からぼろぼろと涙を零すレイラニだったが、先の声は彼女ほど高くはない。もっと落ち着いた、大人の女性の声であれば、声をかけてきたのは知らない女性だった。

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