第4話 日本国特区ガンジス諸島、自宅
「やっぱり女の子って可愛い」
と母は頰に手を当てて太い腹をくねくねとさせた。
勇凪には父親がいない。死んだわけではなく、母が離婚したからだ。経済的にも不便を被っているわけではないので、気にしてはいない。きょうだいもおらず、同居しているような人間もいないからには、ふたりきりの家族だった。
そこにもうひとり加わるというのは、体験したことが無いだけ、不思議な気分だった。
「レイラニ、おいで。家の中を案内してあげるから」
桟橋から海に突き出た二階建ての家をぼけっと見上げていた少女に、母が呼びかける。レイラニ、レイラニ、レイラニ——と三度呼びかけたところで、ようやく笑顔が動いた。玄関に向けて、杖をついて歩き出す。
その背を見送って、勇凪は溜め息を吐かずにはいられなかった。心が重く苦しいのは、単に仲良くしなければならない家族がひとり増えたのが面倒だとか、母を独占できなくなったのが悲しいだとか、そんな感情からではなかった。もっと重く、苦しい、勇凪がこれまでに一度しか体験したことのない感情が口から溢れていた。
桟橋に立ったまま、勇凪は少女を発見してからここに至るまでのことを思い返そうとした。登校中、海の上で少女を発見したのは、もう一週間も前の出来事だ。そして今日という日は、レイラニという名の彼女を引き取った、最初の日だった。
「本気なの?」
数日前、母がレイラニを引き取ると言いだしたとき、彼女の決意を問い質したのは、勇凪ではなく病院の医者だった。
「だって、両親はもう死んでしまったし、祖父母も親戚もいないのでしょう?」
「遠い親戚は、探せばいると思うよ、未明ちゃん」
母をちゃん付けで呼ぶ
「そうね。でも、名乗り出てはくれないだろうって言ったのはあなたでしょう? 引き取り手もなかなか現れないかもしれない、とも」
と母は真っ直ぐな調子で言った。それには、レイラニの脳障害が関係しているらしい。彼女の脳の障害は、幸いにも肉体への影響は無いということだった。しかし記憶はほとんどが消え失せ、精神は幼児レベルまで落ちてしまったのだという。ひとりでは食事や排泄すら満足にこなせない。
「だったら、わたしが引き取るわ。ずっと娘が欲しかったの」
母と衣笠医師のやり取りを、勇凪はじっと聞いていた。ここが病院であり、入院病棟であるからには、このすぐ近くにあの少女がいる。レイラニという名の、あの少女が。
その事実が、勇凪には怖かった。
怖いといえば、ここ数日は何もかもが怖かった。家を訪ねてくるものがあれば、母が玄関を開けてしまう前に隠れるようになり、外では人の視線が気になるようになった。
怖いのは、自分がしでかしてしまったこと。
そしてその結果だ。
「あ………」
病院の長椅子で待っていたとき、勇凪は仰け反ってそのまま座っていた長椅子から転げ落ちた。
肘と腰とをしたたかに硬質の床に打ち付けたが、痛みは無かった。慌てて身体を起こそうとすれば、椅子から転ぶ前と変わらず、勇凪の目の前にワンピース状の白い患者着姿のレイラニが立っていたのだ。
いや、座った。跪いた。勇凪の前で。そして未だ尻餅をついたままの勇凪の手を握った。
握った。それだけだ。
それだけだった。
「衣笠先生が言ってたわ。勇凪がいると、あの子の調子が良いんですって」
帰りの船の中で、母が嬉しそうに言った。
勇凪は青くなった。ヨットは常に位置情報を記録しているため、勇凪が朝にどういったルートを通ったかは、その記録を見れば明らかになってしまう。嘘がばれる。勇凪が一度は少女を放置し、しばらくしてから戻ってきたということが。
「怖い」
怖い。嘘が明らかにされてしまうことが。
怖い。少女を見捨てていこうとしたことが発覚してしまうことが。
怖い。レイラニが。
それなのに、それなのに、母はレイラニを引き取りたいと言った。
「厭だ」
「どうして?」
「どうしてって……名前も変だし」
「天国の花って意味よ。綺麗で素敵な名前じゃない」
そんなの、知らない。厭なものは厭なのだ。
そうした拒絶は無駄だった。ねぇ、いいでしょ、あの子は他に頼る相手がいないのよ、と母は食い下がった。
寄り添うべく舫いが無いのは、脳に障害が残ったせいだろうか。ならばそれは、勇凪のせいだろうか。そうした罪悪感があったが、それ以上に怖かったのは、あまりに強く拒絶することで、その理由を掘り下げられることだった。
十分な抵抗ができないままで、結局勇凪はレイラニが星見家の一員になることを止めることができなかった。
「レイラニ、わかる? ここが居間よ」
海に半ば突き出した形の星見家に入り、母がそんなふうに説明する。レイラニは話を聞いているのかいないのか、棕櫚製の椅子に乗り、きょろきょろと周囲を見渡す。入院している間のリハビリが功を奏したのか、危なっかしさはあれど、レイラニは杖をついて歩くことができた。しかし行動は、まるで幼児だ。
あっちが台所で、二階には勇凪の部屋ね。母がそう説明している間に、レイラニは己の家にも関わらず所在無く玄関のところで突っ立っていた勇凪に突進してきた。
「あー」
勇凪を組み伏せたレイラニは、意味の通らない声をあげた。
「それは勇凪ね。勇凪ちゃん」
と母が助けるでもなく、呑気なことを言った。
アメリカの人間だというのだから、日本語が理解できないのではないだろうか。英語のほうが良いのでは。
「言葉を忘れちゃっているんだから、どっちにしてもすぐには使えないわよ」
だったらガンジス島で使える日本語のほうが良いでしょう、というのが母の理屈だった。
少しでも母国語を覚えていればそれらしい言葉が出てくるはずで、学校で英語の授業を受けている勇凪にもわかるはずだ。しかし口から出てくる音に英語の片鱗も無いのであれば、母の言う通り、言語を忘れてしまっているのであろう。あるいは脳の障害が「言葉を喋る」という行為そのものに阻害しているのかもしれず、それなら言語を覚え直すということは無理かもしれない。
「さなちゃん」
そんな想定は、しかしレイラニの半ばまで開かれた口から発せられた不明瞭な一言で覆い返された。
今のやり取りだけで、勇凪の名を理解したわけではないだろう。彼女が入院している間、母について見舞いに行く機会が何度もあったものだから、そのときに勇凪の姿と名を耳にし、結び付けたのだろう。言葉と目の前の状況を理解し、結び付けるだけの力があるというわけだ。
勇凪はふと怖くなった。この少女は、本当に見た目通りに記憶や意識の障害を起こしているのだろうか。単にそれを言葉にできないだけで、本当は記憶も意識もはっきりしているのではないだろうか。そうして、言葉が喋れるようになれば、勇凪が一度彼女を見捨てたことなどを赤裸々に語りだすのではないだろうか。
洋上での彼女は呼吸も心臓も止まっていて、だからそのときの記憶があるなどというのほああり得ないことに違いないのだが、勇凪は怯えた。怖かった。動けなかった。
その間、レイラニは白い手でぺたぺたと勇凪の顔を触っていた。笑った。小さな白い歯が見えた。
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