第一行 落ちてきた槍

第1話 日本国特区ガンジス諸島、自宅

 母、星見ほしみ未明みめいが深刻な顔をするときといえば、腹が減っているときである。十歳の勇凪の三倍近い体重のある母は、食べるのが趣味だ。本人は料理が趣味だといっているが、興味があるのは料理という過程ではなく、結果の産物で間違いない。

 そういうわけで、居間の椅子に腰掛け、テーブルに肘をついた母が珍しく深刻そうな顔をしているのを見たとき、てっきり、また腹が減ってきたのだろうと思った。まだ朝食を食べたばかりだというのに、ついに三食では満足できなくなったのだろうか。いや、もともと間食をしない日はないので、既に我慢できなくなっているか。ということは四食から五食になるのか。この家の経済は大丈夫なのだろうか。


「怖いわねぇ」

 と母が頬に手を当てて言ったので、「財政?」と勇凪は訊いた。

「爆発したんですって」

「体重?」

「あんた、馬鹿なの?」

 唯一の家族である息子に対して、なんという言い方だろうと思いながら、勇凪は母の視線の先を辿った。壁張りのディスプレイに映されているのは朝のニュース速報で、なんだか難しい単語が多いような気がしたが、映像から推測するに、どうやら何らかの事故が起きたらしい。

「どこの、なんの事故?」

 いつまでも知らない単語を眺めていても理解が追いつかないので、尋ねた。

「だから、旅船が爆発したのよ」

「どこで?」

「上よ、上」

「二階?」

「馬鹿言うんじゃないよ、もっと上」

「屋上?」

「衛星軌道上」

「衛星軌道上って、どのへん? 宇宙ステーションより上? 空気があるところ? ないところ? 無重力? 衛星って極軌道と静止軌道があるんじゃなかったっけ? どっち? 高さも違うんだよね?」

「あんた、そういうのは学校で習いなさいな。もう登校時間でしょ」

 という母の返答を聞いて、なるほどわからないのだな、と合点がいったので、それ以上は追求しないでやった。素直に二階の自分の部屋から登校用のバックパックを取って来て、一階の玄関のところまで戻る。勇凪の家はこの島では平均的な、どこにでもある二階建ての家だ。だから玄関を出ると桟橋があり、目の前に広い広い碧く透き通った海が広がっている。


 桟橋の先には勇凪が寝転んだのとほとんど同じくらいの面積の白いヨットがある。勇凪のヨットだ。帆だけがやけに大きいそのヨットにバックパックを放り投げ、乗り込む。舫を解き、帆を広げる。空は快晴、風は風速五メートルの東向きで、これならモーターフィンを回さずとも、登校にはのんびりと良い速度が出るだろう。風があるのにモーターを回すのは邪道だと思っている。ヨットはゆっくりと滑り出す。

 この辺りの海はガンジス海と呼ばれている。ガンジス諸島周辺の海だから、ガンジス海だ。


「きみたちが産まれる前は、この場所には海しか無かったんだよ」

 授業で教師がそんなふうに言っていたのを、勇凪は覚えている。教師がそんな言い方をするのだから、教師や親の世代でガンジス諸島が現れたのかといえばそんなことはなく、二百年も昔に現れたのだという。二十一世紀の話なので、世紀を超えた大昔も大昔である。

 北緯三十度、東経百五十五度。日本の本州からはだいぶん南東領域にあるガンジス諸島は、最も大きなガンジス島と、幾つもの小さな群島からなっている。学校があるのはガンジス島で、人口の半分程度はガンジス島に住んでいるが、もう半分は周辺諸島から通うのが一般的だ。だから誰もが船を持っていて、その中で子どもに人気なのは勇凪の乗っているような、ひとり乗りのヨットだ。

 このヨットの何が素晴らしいかといえば、最高なのは風を読みながら、全身を使わないと乗れないというところなのだ。両足をしっかり踏みしめて、片手でヨット中央やや後方に位置する、真っ直ぐ伸びたマストを掴む。そしてもう片手での張る方角を僅かに変化させて、ヨットの進む向きを操舵する。たまに足でも船底にある竜骨の向きを動かして、その場で向きを変えることもできる。

 下手糞には乗れない。これが良い。乗れるのがひとつのステータスになる。そのうえ、上手く乗りこなせば、そのへんのエンジン付きの漁船よりは速いのだから、勇凪の学校への足はこれ以外に考えられない。もちろん今の時代、仮想空間体験のための装置というのが存在していて、感覚を再現する眼鏡や手袋をつければ、あらゆる出来事を部屋の中で体験できるということは知っている。講義を受けるだけならば、ディスプレイひとつあれば十分なのだ。

「でも、学校に行かないとサッカーができないもんね」

 もちろん、やり方によっては家に居ながらしてサッカーができる。動き回っても問題がない部屋の中で、かっこわるい眼鏡だのスーツだのを着て体感することは可能だ。だが泳ぎたいなら海の中に入れば良いように、サッカーがしたいならガンジス島のなだらかな丘の上で球を追いかければ良いのだ。いちいちごてごてした道具に頼る必要などない。もっといえば、脳に直接装置を埋め込んで体験するのなら、重苦しい眼鏡だの手袋だのは要らないらしいが、それでは何のために手足があるのかわからない。自分の身体を使って体験すれば良いのだ、余計な装置を使うのは馬鹿馬鹿しい。それはこうしてヨットに乗っていればわかる。

 だから少なくとも、このガンジスに住んでいる人間で、そうした仮想空間体験装置を使っている人はいない。だからみんな、海に触れて暮らしている。勇凪も、勇凪の友だちも、勇凪の母も、みんなそうだ。だから今日も皮膚に風を感じながら、勇凪は学校への向けて帆を張る。快調だ。


 だが順風満帆のはずの風がふと凪いだ。これはモーターフィンを回さなければいけないか、せっかく風だけを使って航行できていたのになぁ、と悔しがりながら、また風が吹いてくる兆候はないかどうかときょろきょろ周囲を見回す。西にはぽつりぽつりとガンジス諸島の小島があり、南には本島が、そしてそれを刺し貫くように天から一本の線が伸びている。いつも通りの光景だ。

 と思いきや、東に海鳥がやけに集まっている場所があった。距離があるのと海面の反射のために見難いが、海上に何かが浮いていて、そこに海鳥が集まっているのだろう。

(流木とかじゃないな)

 遠目ではあったが、その浮遊物体は鮮やかな蜜柑色をしているらしかった。ということは人工物で、船らしい帆やマストが見えないのだから、漂流物か。しかし蜜柑色というのは、海に浮いていても遠目でわかりやすい色合いにしているのだから、海に浮かぶことを想定しているものだろうな。なんだろう、沈みかけの船だろうか。だったら、お宝でもあるだろうか——そんな考えから、勇凪は海鳥の集まっていく方向へと電動のモーターフィンで漕ぎ出した。


 ヨットが近づいていくと、それまでなぜ集まっていたのかわからないとでもいうように、海鳥たちは空へと戻っていってしまった。おかげで降ってくる糞への警戒はしなくて良くなった。

 接近してわかったのは、浮いているそれが船の破片だとか、撒き散らかされたゴミではないということだ。明らかに独立した物体で、直方体に近い形状だったが、角は丸い。箱だ。角の丸い箱だ。箱が浮いている——蓋は開いていて、中に入っていたのは可愛らしい少女だった。

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